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help RSS 岩野泡鳴著・耽溺

<<   作成日時 : 2008/09/27 00:52   >>

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「耽溺」・岩野泡鳴著(岩波文庫)

自然主義の作家では島崎藤村と田山花袋が横綱で徳田秋声が大関、岩野泡鳴が張り出し大関といったところか。泡鳴の立場は微妙だ。藤村・花袋を知らぬ人は珍しい。例え作品を読んだことのない人でも知っている。秋声はニ人に準じる知名度である。泡鳴ときた日にはどうだ。自然主義連では有名な人物である。しかし有体に言えば知ら画像ない人が多い。その理由はなんであるかは判らない。今日この作家の作品はわずかの文庫で読める程度だ。わたしは二十代に一度読んで途中で挫折した。「発展」という作品である。内容は覚えていないが、ひどく退屈な小説であったと記憶している。彼の代表作でもある。であるから今度読んだ「耽溺」は、初めて泡鳴を読んだことになる。
一言で言えば、ふやけた畳、青黴の生えた餅の例えでよいだろう。自然主義の作家はなぜこうも湿っぽいものを書くのであろうか。それが人間だとしてもわたしは好きになれない。大方、「発展」も「耽溺」の類であったのだろう。二十代の人間が読んで面白いと感じたら危険である。詰まらないと感じて当然だ。
しかし別の意味で単純に面白い。わたしもだいぶ老人に近づいたから、今度は自然主義がどうのというのは野暮な話で、ただ喜劇として素直に面白いと感じた。

ラジオで人生相談をやっていたが、あれはまだあるのだろうか。前は車で聞いていたものだ。大抵は男女間の縺れである。どれも似たようなものだが、細部を検討すればどれも同じとは言えない。回答者は気楽である。傍観者だからだ。いつでも道徳的回答を出すに決まっていた。それでよいと思う。
しかし質問者は納得できたであろうか。又、すみやかに実行に移すことができたであろうか。例え実行出来たにせよ、巧くいったかどうかは謎である。それほど人生の諸問題は帰納法や演繹法で解決できるほど単純ではない。これは少し長く生きれば誰でもわかることである。男女間の問題などは当事者同士で解答を探すしか方法がない。実は書店に並ぶあらゆる人生のハウ・ツー本が訳に立たないのはこの点にある。百人の縺れがあれば百通りの縺れが、一万人いれば一万通りの縺れがある。傍から見れば莫迦 々しい。当事者も莫迦 々しいと思う。人生の浪費だ。しかし莫迦 々しいと言っては冷淡である。莫迦 々しいことの積み重ねが人生かもしれない。非論理的、非合理的が人間の本質だ。喜劇にもなり悲劇にもなりうるのだ。読み終えたら、まずはこんな事を考えた。

小説に何を求めるかは自由だ。しかし全く莫迦 々しい(この言葉をいくつ繰り返すことになるか)。女々しくてどうにもならない。この話の語り手田村と泡鳴がどの位近いかわからない。だが田村=泡鳴であったら嫌悪すべき男である。泡鳴の名誉のためにも主人公は架空の人物であることを望む。田村は英語教師である。また作家でもある。妻と子供二人がいる。或る夏のことだ、国府津の海岸に送ることとなった。人の紹介で素人の家に泊めてもらうことになった。隣は井筒屋という料理屋である。そこにいる芸者吉彌と親しくなった。ここまではよくある話である。
吉彌は踊りが巧いので田村は東京で役者になったらどうだと切り出す。本人もすっかりその気になって東京に行く事を望む。田村は其の筋の人を紹介しようと言う。素状もわからない芸者に妙に親切だが、なんのことはない妾か何かにしようという企みである。あゝ、馬鹿なのは男だ。惚れたら負け、惚れさせた方が勝ちだ。所詮は芸者である。自分の全てが資本の商売、男に金を出させるのが本質である。田村もそれを知らぬではない。
おまけに吉彌は二人のよい男が先にいる。それを知った田村は激怒もするが、惚れた弱みで諦めることができない。妻は吉彌と夫の関係を知っているが知らない振りだ。吉彌のために田村は妻の衣類まで売るだらしのない男だ。不誠実な吉彌にきりをつけるところで終わりになる。しかし田村はきりをつけられないだろう。このふしだらはどこまで続くかわからない。金の続く限りは続くであろう。金がなくなって吉彌に愛想をつかされても続くだろう。愛に溺れた男の小説である。きれいな小説じゃない。
またこうも考えた。愛欲をきれいごとに書く小説はお伽噺かもしれない。動物的な醜悪が伴なっているものだ。排泄と変るところはない。これを赤裸々に書けば書くほど、嫌悪感を覚えるのは自分の持っている醜悪な部分を見る思いがするからである。人間の汚辱を書くのも小説の一方法である。しかし、わたしは幾分ロマンチケルな小説が好きである。これはまったく嗜好の問題である。

先に人生相談の話を持ち出した。田村は愛欲にのみ生きる莫迦な男ではない。英語の教師をしている。小説も書く。理性の働きはある。自分の行いを莫迦 々しいと理解している。しかし人間は自分の事となると理性が働かない。感情に溺れるのだ。理性的判断ができるのは他人の行いに対してだ。人生相談する方も、する前に解決策は理解出来ている筈だ。ただ人に相談するのは自分の考えが正しいか否かを確認するためである。自分に対して理性的であるには自分に対して冷淡である必要がある。しかし実行できないのが人間でもある。人の色恋沙汰は傍から見れば喜劇に過ぎない。

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