小島千加子著・三島由紀夫 終わりの日日

「三島由紀夫と壇一雄」・小島千加子著(’89年理想社刊/ちくま文庫)
※三島由紀夫 終わりの日日/ 壇一雄 「火宅の人」とともに

最後の電話!
「明日原稿渡せるんだけどね。……僕は午前中に出かけちやふんだよ。
 ……盾の会例会に行かなきやならないんだ。……君は早起きかい?
……たとへば……」


壇一雄はパス。「三島由紀夫 終わりの日日」だけ読む。
小島千加子氏は新潮社で三島晩年の編集に携わった人である。作家の作品が本として世に画像出るまでの編集者の苦労というものが分かる一冊。編集者はデスクワークの人ではない、時には作家の資料集めに奔走し、取材のために作家と現地に赴く。無理難題を次々とこなしていかなければならない。その小島氏は三島最後の長編「豊饒の海」の最終稿を受け取りに行く所から始まる。上は前日昭和45年11月24日、小島氏が新潮社で受けた電話の一部である。
続いて、―さう……それぢやあね……十時半頃来てくれるかい?―
翌25日、約束の時間より十分遅れて三島邸に着く。しかし三島は盾の会例会に出かけた後だった。お手伝いの人に分厚い封筒を手渡された。社に帰って原稿をひろげてると、最後の頁に
「豊饒の海」完
昭和四十五年十一月二十五日

その時、社内に異変が!

小島氏の「最後の電話」は圧巻。様々な11/25があるけれど最終稿を受け取りに行った日が運命の日というのは衝撃である。氏は十分、遅れたのを悔やんでいたが、翌26日密葬の時、お手伝いさんに聞いたら十時過ぎに出かけると話していたそうだ。仕組まれたすれ違いに多少は安堵したが、蚊帳の外であったことに淋しさを感じたという。「天人五衰」は8月中、遅くとも10月前には出来ていたと云われる。決行日の前夜、遺書替わりの作品を徹夜して書上げる…いかにも理想的な美学であるが、興奮状態で気持ちが高ぶっていたのではないだろうか。24日夜十時頃、両親と最後の言葉を交わしている。これは平岡梓氏の「倅・三島由紀夫」に詳しい。翌日はお手伝いさんだけに会っているようだ。梓氏は出かける三島のうしろ姿を見ている。徳岡孝夫著「五衰の人」によると瑶子夫人は車で子供達を学校へ送ったあと乗馬の練習に行く日であった。三島が起きたときはすでに家にいなかったという。うまい具合に小島氏を含め危険な人物に会わずに家を出たことが推測できる。昔、歌手の灰田勝彦が明日は出撃の少年飛行兵を慰問に行った時,歌い疲れるまで「森の小径」などリリカルな曲を大合唱した話を雑誌で見たことがある。三島と森田必勝氏の最期の夜は一種特別な感情があったと思う。明日がある(あると思っている)私には理解できない。

画像左は「豊饒の海」最終刊「天人五衰」のカバー画である。瑶子夫人によるものである。小島氏によると、
―のちに知ったのだが、この画装は第三巻「暁の寺」のときすでに、作者自ら、海と貨物船と雲との配分をスケッチで示して装画担当者に渡してをり、それにもとづいて装幀者が慎重に描き直すこと九回、いづれも夫人の意に沿はず、ついに夫人自ら筆をとられるに至った、といふ。―
初版が昭和46年2月25日であるから、かなり前に描いたことになる。あのような事件のあとでこのような静かな絵を描く夫人の気丈さには驚かされる。三島生前没後も表に出てこなかった夫人が表装を手がけたのはどのような感情からだろうか。

第三巻「暁の寺」のモデル探し(失敗する。)/中山博道述「切腹の作法」※を「週刊新潮」の掲示板で譲ってもらいたいと掲示/初めての訪問の時のもてなし―など挿話を盛り込みながらも、晩年の緊迫した横顔を余すところ無く伝えている。

※「週刊新潮掲示板」昭和42年9月9日号
「剣道の名人、中山博道氏述「切腹の作法」という本を小説「奔馬」のために捜しておりますが、実はそれが刊本であるかどうかさえわかりません。もし、どなたか刊本あるいは写本をお持ちの方があったら、お申越しの値段で、お譲りいただきたく」(「終わりの日日」より)
「切腹の作法」(中山博道述)は存在するのだろうか。ネット検索、人名辞典で調べたが該当するものがなかった。写真集「三島由紀夫の家」(篠山紀信著)の書斎写真で「切腹」(中康弘道著)は確認できる。笠井某から入手した本が中山博道氏のものかわからないと小島氏も書いている。もしかしたら中康氏のものではという気もするが。

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