三島由紀夫著・おわりの美学
「行動学入門」・三島由紀夫著(昭和45年文藝春秋・文春文庫)
Ⅰ 行動学入門
Ⅱ おわりの美学
Ⅲ 革命哲学としての陽明学
三島由紀夫のおわり
「おわりの美学」は「女性自身」に連載されたエッセィです。昭和41年で、この年には「三島由紀夫レター教室」も「女性自身」に連載されている。意外な雑誌に書いたものだと思いますが、大江健三郎氏も対談か何か掲載されたことを聞いてますから、この頃の「女性自身」はヤングレディ向きの「婦人公論」などよりは、もう少しくだけた情報雑誌ではなかったかと想像します。
「おわりの美学」は三島の作品のうちでは最も軽いほうのエッセイになると思います。「第一の性」、「新恋愛講座」、「反貞女大学」、「レター教室」と同系列のヤングレディ向きの作品です。「結婚のおわり」から「世界のおわり」まで23のエッセイで構成されている。最終稿の「世界のおわり」の最終行だけは三島の本音がチラと出ていると感じます。
…まず、みなさん、ただ今の時点において、世界はまだおわる気配はありません。生きているわれわれは、死んでゆく人たちに対して「他人」でいることができます。週刊誌は「他人」の目を代表する「他人」の雑誌です。「女性自身」も本当は「女性他人」と改名すべきです。私たちは「他人」の一人として、笑い、歌い、泣き、怒っていられるのです。
自分があらゆる他人に見捨てられて死んでゆくときまでは―。
多少のユーモアを交えているが、この種のエッセィの結末としてはいかにも寂しい。「自分があらゆる他人に…」はすでにある方向に歩み始めている暗喩だと思います。おそらく。しかしこの時点で4年後の悲劇を察知した者は誰もおりますまい。「世界のおわり」のあとには三島本人が書けない「三島由紀夫のおわり」を読者が付け加えるべきでしょう。
全体的には、弱そうに見せかけて世渡り上手でしたたかな女性像を、一見強そうだが純情でつぶれやすく強がろうとしなければ生きていけない男性像を書いていると感じました。
言葉は恐い
だいたい選挙放送を見ていますと、当選確実な人物ははっきりしたことを言わない、…と思います、…に取り組んでいきますという具合で、絶対落選する人物ほど、…します、…やりますとはっきりしています。これは言葉の認識の違いで、当確する人は、そのあとのことが頭にある。彼が、…します、…やりますと言った時には、すでにその方向で動き始めている訳で、あいまいな言い方をする時は、自分は国民の皆さんのほうを向いているんですよ、ですがねえ関係省庁団体の圧力が強くてねえ…という言外の言葉がたわめられているのである。落選確実な人物はそういう言葉の顧慮はしない。自分はきっとやる、しかしねえ、国民の皆さんが国会に送ってくれないんだから…という立派な言い訳が成り立つわけです。大会社の社長なども人前では大きなことを言わない。これは彼らが言葉の波及効果を恐れているためだと思います。日本で最も言葉によって行動が拘束されているのは皇室でしょう。
人間の誠実さは行動と言葉によって判断できると思う。言葉と行動が一致している人間は信頼できます。最近の小沢氏は言葉と行動の乖離が思わぬ醜態をさらしました。ですから私は言葉は怖いと思う。
言葉は知性の働きで行動は肉体の働きであるから、知と行の関係で、これが出来るだけ近いほうがよい。この二つを完全にフイットした思想に陽明学がある。「革命哲学としての陽明学」では行動の源泉の感情として三島は陽明学を採り上げていると思います。陽明学は知行合一が主旨で、考えてから行動するか、行動してから考えるか、その辺りの境界が曖昧で究極的には同時進行でラジカルな思想です。
「知ッテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ」
心に点った認識は直ちに行動に移さなければ、今だ認識もなにもないと同じである。昨今の知識人がまさにこの状態で、自分は絶対安全な場所にいて、火傷するかもしれない行動は別の人間にやらせようと企む。テレビや雑誌で大言壮語する偽知識人のなんと多いことか。
ここで云う行動は利害損得を度外視した行動です。正義のための行動であって肉体の死より精神の死を恥じる行動です。三島が採り上げている人物は大塩平八郎であり、西郷隆盛、吉田松陰、乃木大将で彼らの最終行動が損得勘定から見たらいかに犬死であるか、しかしそこに至純の行動哲学があるわけです。従って陽明学で云う所の行動は美しいが、凡人が容易に近づける所のものではない。陽明学の思想を捻じ曲げたビジネス書や人生論はあとを立ちません。彼らは実弾の入ったピストルを玩具のピストルと勘違いして遊ぶ子供のようで恐ろしい。さすがに三島は陽明学が人生に役立つなどとは言いません。死を前提にした行動が今の日本人にあるでしょうか。私はこれからもないと思う。そして行動を迫られる状況が生涯ないほうが幸福であると思います。「行動学」三篇のエッセィは現実に則していると思わせながら、実は空疎な観念論だと思いました。これは三島のトリックのうまさによるものでしょう。しかし文学とか思想、哲学は現実世界から遠ざかるほど、いよいよその輝きを増し、近づくほど輝きを失うのはイロニーであります。
←Ⅰ行動学入門・前頁
Ⅰ 行動学入門
Ⅱ おわりの美学
Ⅲ 革命哲学としての陽明学
三島由紀夫のおわり
「おわりの美学」は「女性自身」に連載されたエッセィです。昭和41年で、この年には「三島由紀夫レター教室」も「女性自身」に連載されている。意外な雑誌に書いたものだと思いますが、大江健三郎氏も対談か何か掲載されたことを聞いてますから、この頃の「女性自身」はヤングレディ向きの「婦人公論」などよりは、もう少しくだけた情報雑誌ではなかったかと想像します。

「おわりの美学」は三島の作品のうちでは最も軽いほうのエッセイになると思います。「第一の性」、「新恋愛講座」、「反貞女大学」、「レター教室」と同系列のヤングレディ向きの作品です。「結婚のおわり」から「世界のおわり」まで23のエッセイで構成されている。最終稿の「世界のおわり」の最終行だけは三島の本音がチラと出ていると感じます。
…まず、みなさん、ただ今の時点において、世界はまだおわる気配はありません。生きているわれわれは、死んでゆく人たちに対して「他人」でいることができます。週刊誌は「他人」の目を代表する「他人」の雑誌です。「女性自身」も本当は「女性他人」と改名すべきです。私たちは「他人」の一人として、笑い、歌い、泣き、怒っていられるのです。
自分があらゆる他人に見捨てられて死んでゆくときまでは―。
多少のユーモアを交えているが、この種のエッセィの結末としてはいかにも寂しい。「自分があらゆる他人に…」はすでにある方向に歩み始めている暗喩だと思います。おそらく。しかしこの時点で4年後の悲劇を察知した者は誰もおりますまい。「世界のおわり」のあとには三島本人が書けない「三島由紀夫のおわり」を読者が付け加えるべきでしょう。
全体的には、弱そうに見せかけて世渡り上手でしたたかな女性像を、一見強そうだが純情でつぶれやすく強がろうとしなければ生きていけない男性像を書いていると感じました。
言葉は恐い
だいたい選挙放送を見ていますと、当選確実な人物ははっきりしたことを言わない、…と思います、…に取り組んでいきますという具合で、絶対落選する人物ほど、…します、…やりますとはっきりしています。これは言葉の認識の違いで、当確する人は、そのあとのことが頭にある。彼が、…します、…やりますと言った時には、すでにその方向で動き始めている訳で、あいまいな言い方をする時は、自分は国民の皆さんのほうを向いているんですよ、ですがねえ関係省庁団体の圧力が強くてねえ…という言外の言葉がたわめられているのである。落選確実な人物はそういう言葉の顧慮はしない。自分はきっとやる、しかしねえ、国民の皆さんが国会に送ってくれないんだから…という立派な言い訳が成り立つわけです。大会社の社長なども人前では大きなことを言わない。これは彼らが言葉の波及効果を恐れているためだと思います。日本で最も言葉によって行動が拘束されているのは皇室でしょう。
人間の誠実さは行動と言葉によって判断できると思う。言葉と行動が一致している人間は信頼できます。最近の小沢氏は言葉と行動の乖離が思わぬ醜態をさらしました。ですから私は言葉は怖いと思う。
言葉は知性の働きで行動は肉体の働きであるから、知と行の関係で、これが出来るだけ近いほうがよい。この二つを完全にフイットした思想に陽明学がある。「革命哲学としての陽明学」では行動の源泉の感情として三島は陽明学を採り上げていると思います。陽明学は知行合一が主旨で、考えてから行動するか、行動してから考えるか、その辺りの境界が曖昧で究極的には同時進行でラジカルな思想です。
「知ッテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ」
心に点った認識は直ちに行動に移さなければ、今だ認識もなにもないと同じである。昨今の知識人がまさにこの状態で、自分は絶対安全な場所にいて、火傷するかもしれない行動は別の人間にやらせようと企む。テレビや雑誌で大言壮語する偽知識人のなんと多いことか。
ここで云う行動は利害損得を度外視した行動です。正義のための行動であって肉体の死より精神の死を恥じる行動です。三島が採り上げている人物は大塩平八郎であり、西郷隆盛、吉田松陰、乃木大将で彼らの最終行動が損得勘定から見たらいかに犬死であるか、しかしそこに至純の行動哲学があるわけです。従って陽明学で云う所の行動は美しいが、凡人が容易に近づける所のものではない。陽明学の思想を捻じ曲げたビジネス書や人生論はあとを立ちません。彼らは実弾の入ったピストルを玩具のピストルと勘違いして遊ぶ子供のようで恐ろしい。さすがに三島は陽明学が人生に役立つなどとは言いません。死を前提にした行動が今の日本人にあるでしょうか。私はこれからもないと思う。そして行動を迫られる状況が生涯ないほうが幸福であると思います。「行動学」三篇のエッセィは現実に則していると思わせながら、実は空疎な観念論だと思いました。これは三島のトリックのうまさによるものでしょう。しかし文学とか思想、哲学は現実世界から遠ざかるほど、いよいよその輝きを増し、近づくほど輝きを失うのはイロニーであります。
←Ⅰ行動学入門・前頁
この記事へのコメント