江戸川乱歩著・パノラマ島綺譚

「パノラマ島綺譚」・江戸川乱歩著(光文社文庫)

《 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった 》…… 「雪国」の冒頭である。まったく場違いの所に川端康成を思い起こしてしまった。乱歩と川端が交際していたという話は聞いたことがないけれども、お互い顔は知っていただろう。画像僕は「パノラマ島綺譚」を読み終えたところだ。そこで僕の感想の第一声は「雪国」の冒頭である。人生はいつも陽の当たる道を歩ければ幸せだ。むしろ暗い隧道を歩いている方が多い。少なくとも僕の場合はそうである。つらい隧道を進んでいけば、いつかは明るみにでるだろうという期待が僕を支えている。それは儚い夢かもしれない。しかし夢をひたすら追わなければ人生はまことに味気ない。今日の辛さが永遠に続くと思えば生きるのが莫迦/\しくなる。夢こそは生きる目的なのだ。僕はこの物語の中途、海底のガラストンネルを抜けると、そこはパッと視界が開け、世にも雄大な景色が拡がっていたの部分が記憶に鮮明に残っているのである。これは物語にとっては些細なことであるけれども、今の僕の境遇がいつかはパッと視界が開けるであろうことを期待しているからである。

僕らは人に使役されることに慣れ過ぎている。ピラミッドの頂上に立つ人もまた人に使役されているのである。絶対者というのは言葉上だけに存在しているに過ぎない。世界の創造者になったらさぞ面白かろうと思う。が、人間の神経は創造者になれるほど太くはない。いつでも僕らは僕らの上に神が居なければ落ち着かないのである。が、せめて空想で創造者になって世界を改変してみたいという気持ちの萌したことはないだろうか。堅実なサラリーマンは僕の云うことを子供の空想と笑うであろう。(だがね、児戯に対する憧れの心が無くなったらね、人生は終わっているのだよ。)
まったく莫迦/\しいと思うようなことに人生を費やす人がいるものである。しかし私はそのような人を見るに付け嫉妬にも似た感情に襲われる。自分のしたいこともできない自分が情けなくもなる。大抵の場合、それらの人は世間の目など関係がなくなっているのだ。金銭の奴隷となっているサラリーマンよりも人生を生きているから。たとえば芸術家はその類である。

芸術なんぞ人生に何も利益を与えるものでないから、そんなものに一生懸命になる奴は莫迦だという人がいるかもしれない。しかしそれなしに人間は生きて行けないのも事実である。その証拠に有史以来芸術が途絶えたことはないのだ。僕らの精神は食って寝て媾合するだけでは満足できないのである。芸術は僕らの精神に満たされない何かを補完してくれる働きをする。芸術とは何か ? ― この議論は難しい。「パノラマ島綺譚」の主人公・人見廣介というより乱歩の考えかもしれない。彼の考える芸術も一つのあり方である。
《 彼の考えによれば、芸術というものは、見方によっては、自然に対する人間の反抗、あるがままに満足せず、それに人間各個の個性を附与したいという欲求の表れに外ならぬのでありました。それ故に、例えば、音楽家は、あるがままの風の声、波の音、鳥獣の鳴声などにあき足らずして、彼等自身の音を創造しようと努力し、画家の仕事はモデルを単にあるがままに描き出すのではなくて、それを彼等自身の個性によって変改し美化することにあり、詩人は云うまでもなく、単なる事実の報道者、記録者ではないのであります 》
これによれば芸術は自然に対する批評精神の発露である。彼は音楽とか美術とか部分的な自然への批評ではなくて自然全体への批評を試みた結果がパノラマ島である。小島の一切を変改したのだ。ロココ調の絵画にある風景描写は現実を超えた風景である。僕らはあれほどまでには自然が美しくはないことを知っている。あれは自然を通して見た画家の心象である。まさに人見は自然を平面ではなく立体として理想化された自然に改変したのだ。その時彼は大自然の創造主になった。それが児戯に過ぎないと理解していても……。

僕らはディズニー・ランド(その他遊園地)で理想化された自然を見ることができる。パノラマ島はそれの大がかりのものと思えばよいだろう。柵の外では詰らない現実があると知りながら僕らはアトラクションに酔いしれるのだ。聳える城も内側から見れば看板建築に過ぎないことを知っている。絶対に襲ってこない作り物の猛獣たち。僕はゲートを出ると虚しくなる。美は観念の中にしか存在しないことを突きつけられるからである。
僕は乱歩の小説自体いつもパノラマ島だと思う。絶対に実行不可能な完全なる犯罪美学であるからだ。彼は非現実の世界を現実に戻すために必ず一か所傷を入れておくのを忘れない。
乱歩の小説では犯罪者は特殊な感情を持っている。プランから実行、そして結果にいたるまで完全なる犯罪美学をもっている。これが現実の犯罪者と違うところだ。現実の犯罪者にあっては犯罪は目的の手段にすぎない。ところが乱歩の犯罪者は犯罪自体が目的なのだ。彼らにおいては犯罪のスリルとサスペンスは快楽でさえあるのだ。
この世で最高の快楽は死を賭した快楽である。それはまた禁断の果実でもあるのだ。僕は人見が千代子を殺害するシーンに乱歩の狂気を見る。マルキ・ド・サドにも似た狂気である。
《 争闘というよりは、遊戯の感じでした。「死の遊戯」というものがあるならば、正しくそれでありましょう。相手の腹にまたがって、その細首をしめつけている廣介も、男のたくましい筋肉の下で、もがいている千代子も、いつしか苦痛を忘れ、うっとりとした快感、名状出来ない有頂天に陥って行くのでした 》
乱歩の小説はいつでも陶酔感覚がある。そして性的暗示をほのめかしているのだ。これが乱歩の衰えない理由であろうと思う。


「新青年」大正15年10月号― 昭和2年4月号連載

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