武藤 章著・比島から巣鴨へ

「比島から巣鴨へ」・武藤 章著(中公文庫)

戦犯とは何か ? 国家の存亡を賭けた武力行使の指導的立場にある人物が、ひとたび戦に負けた時は敵側に捕らえられて戦犯の汚名を着せられる。いつの時代も同じだ。敵側(連合国)にとってみれば、損害を受けた度合いの高い指導者ほど憎い敵で許すことのできない人物なのは当たり前のことで、日本の戦国時代を見れば敗軍の大名は切腹と相場が決まっている。敵側から見た面白くない奴を戦犯といのはわかる。
しかし敗戦国側も同じ認識で戦争の指導者を戦犯と称してよいものだろうかという疑問がある。まず指導者が問われなければならないのは開戦する必要があったか否か、そして莫大な人的物的資源を投入しながら敗戦してしまった責任である。戦後は東京裁判を全肯定することで始まっているから開戦は誤った選択だったという帰結になるが、敗戦責任についてはどうか ?
この点について東京裁判は言及はしない。なぜなら戦勝国が敗戦国の指導者を裁判するのであるから、戦勝国にとって敗戦国の敗戦責任などは敗戦国内部の事情であるからどうでもよいことなのだ。
戦後史は東京裁判を絶対視するあまり軍の敗戦責任をあいまいにしてきた。もし日本人に東京裁判をさせたら当然敗戦責任は追及されたであろう。そして敗戦に到らせた愚鈍な高級軍人は戦犯として裁かれたであろう。一たび国家が戦争という結論に到れば軍の忠実なる指導者は国を勝利に導くために最善の努力をするであろう。そして最善の努力をした者は敗戦したときには敵国にとって許しがたい奴になるのだ。われわれは東條ら七人をA級戦犯といい、日本を地獄に落としめた極悪人のように言う。はたして彼らは極悪人であったかどうか判断するには歴史家の研究を待たねばなるまい。連合国側にとって極悪人というのをそのまま受け入れてよいものだろうか。

又、こうも考える、われわれは山本五十六や栗原忠道を立派な軍人であったと見、片や武藤 章や板垣征四郎を残忍な侵略主義者と見る。はたしてこの見方は正しいか ? 両者の立場を入れ替えてみれば同じことになるかもしれない。たまたま武藤や板垣は連合国に憎まれる位置に居たと考えるほうが正しいだろう。山本や栗原は悲運の将であるけれども高級軍人であることに変わりなく敗戦責任はあると考える。
又、インパール作戦の牟田口廉也は間抜けであったがために連合国にはたいして問題にもされなかった。武藤 章は優秀であったことが厄して死刑判決を受けた。東京裁判は連合国の主観による裁判であり、戦後日本は東京裁判を肯定した。戦後史にとって不幸なことは日本の視点で大東亜戦争を考察しなかったことである。東京裁判は連合国の民主的な方法によって、それはつまり後世の人に捕虜を虐殺したなどと悪口を言われないために、裁判という芝居を演じた末の安全なる殺害方法である。いかに戦勝国といえど、トルーマンやその配下のカーチス・ルメイの大虐殺が許されるだろうか ? 東条らを戦犯と云うなら彼らもまた戦犯として教科書に記載するべきだ。一言でいえば東京裁判は茶番だ。

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茶番であっても歴史上の事実に変わりはない。武藤 章がA級戦犯であるのも永久に覆されることはない。ただ、私が思うのは裁判と云えない東京裁判を戦後日本が正当化したことへの疑問だ。これは戦後民主主義という自虐史観による成果であるが、毎度同じことを書くことになるので今回は省略する。武藤 章が拘置所で手記「経歴の素描」「比島戦の実相」及び日記を書いたか、おそらく軍人としての総決算と死刑になった場合、後世の人に戦犯・武藤 章の肉声を届けんがためであると思う。彼としても戦犯の汚名は甘んじて着ても、はたして自己の歩んだ道が本当に戦犯に該当するものか後世の人に判断をゆだねたい思いがあってのことだ。昭和23年9月25日の日記で、≪ 日本歴史は公卿の罪悪を掩蔽して、武家の罪のみを挙示する傾きがある。大東亜戦争の責任も軍人のみが負うことになった。武人文に疎くして歴史を書かず、日本の歴史は大抵公卿若くはこれに類する徒が書いたのだから、甚しく歪曲したものと見ねばならぬ。 ≫
戦後史というのも事実そのものと、その解釈は別で左系の文化人によって組み立てられてきた経緯がある。東京裁判を全肯定する人も公平を期する意味で戦犯の言い分を聞いてから判断しても遅くはないであろう。

「経歴の素描」では武藤がエリート軍人であったことが窺える。軍人特有の柔軟性に欠けるタイプではなく、むしろ思慮深いほうで、官僚的性格を有していたといえよう。士官学校時代はたいへんな読書家で文学青年であり、それがのちに役立ったと述懐をしている。≪ 私の少年青年時代の文学、思想、哲学等の耽読癖は、今では読書の内容は違って来たが尚持ちこされている。私が軍人としてその後色々な仕事に従ったが、常に非常識に陥らずに一応の条理を立てた見識を持ち得るのは、少し自惚かも知れぬが、このためだと思っている。 ≫ 武藤の書いたところから彼がなぜ戦犯となったかを要約してみると、軍務局長着任以来、連合国側が言う共同謀議 ― 連絡会議や御前会議に出席したことがまず評価された。これらの会議に出席した以上は、武藤の意見や行動がどうであろうと、大東亜戦争賛成の強硬派と見られても仕方がない。( 武藤の回想からは、彼はむしろ大東亜戦争反対論者である。聡明な人物なら米英と戦争することがいかに危険であるか予測がつくはずだ。しかし、客観的な検証が必要である)
だが、これだけでは絞首刑にはできないので、フイリピンの残虐事件を付け加えた。比島の残虐事件については、≪ 山下大将の知らざる時と場所に於て行われたもので、山下大将に刑事責任を問うのが既に問題である。然るに私が参謀長であったと云う理由で、山下大将と同一の責任を負わされている ≫と言っている。フィリピンでは軍の統率が出来ない事態に陥っていた事実を考慮しても、指揮官に責任がないとは言えない。武藤には山下奉文がすでにマニラの軍事裁判に於いて極刑になっているので、その配下の自分にまで責めが及ぶことへの不満があったかもしれない。
≪ 私は勤勉なる参謀であった事を自認する。軍人として平時勤務に於て何人にも劣らぬ精励なる将校であったと自惚れている ≫ ≪ 私は軍人として自己の本分、職務を最善に尽して今日に至った ≫ 軍人として職務に忠実であったことが敵に憎悪の念を深くさせた。武藤は陸軍軍人であったことに誇りを持っていたとみてよいだろう。


明 暗

11月12日 ― 「被死刑宣告者の手記」より

≪… 午後3時から宣告が始まる。荒木さんからABCの順に、一人づつ法廷に呼び出されて行く。荒木さんが笑いながら控室にかえって来た。待機者と話してはならぬ。奥の方に離れて坐る。次に土肥原さんが出て来たが、控室を通り抜けて、次の食堂の方に行ってしまう。「はは」と思う。憲兵に導かれて法廷に入る。電燈が眩しいように明るい。写真機が一斉に向く。活動撮影機の音がする。テーブルの上にイヤホンがある。それをかける。裁判長が英語で宣告文を読み上げる。私は最終語のハングと云うので全部を判った。通訳が、
「極東国際軍事裁判所は、前述起訴状の判定に基き、武藤 章に絞首刑を宣告す」
こんなことを云った。私はイヤホンをはずし、裁判長に目礼して退場した。 ≫

昭和23年11月12日、判決が出た。荒木は荒木貞夫で一票差で死刑を免れた。終身刑と死刑では差がありすぎる。荒木のほっとした感じと土肥原の憮然とした感じを物語っている。武藤も死刑は予測していたとは云え、その時までは一縷の望みは繋いでいた事であろう。われわれは戦犯、戦犯と云うが絞首刑になった七人の名を言うことができるであろうか。云えたとして彼らの経歴と仕事を言えるであろうか ? 戦後民主主義は絞首刑になった七人を非常なる残虐者のように言う。もう少し彼らの仕事を精査してから判断を下すべきであると思う。彼らの立場になったら何人が彼らと同じ宿命を背負わないとは限らないのである。

児島 襄氏の「東京裁判」(中公文庫)より引用したい。
『 ウェッブ裁判長がいうような勝者の「みせしめ」なのか。それとも、パル判事が言外に指摘するように、白人世界にたいする反抗は許さぬという表意なのか。それとも、軍人、文官を問わず、いささかも戦争を考えてはならぬとの戒めなのか。しかし、七人の”死刑囚”がいずれも残虐行為、すなわち既存の国際法の違反に問われて死刑を宣告されていることを思えば、裁判は、戦争の目的よりは、たんに戦争の手段をテーマにしているようにもうけとれる。では、七人は指導者なるがゆえに、そしてそれだけの理由で処罰されるのか。』
「みせしめ」も「白人世界にたいする反抗は許さぬ」はアメリカの本心であろう。まさに東京裁判は白人の残酷性が表れた裁判だ。まったくアメリカの日本に対する目的はペリーの開港から始まって東京裁判で決着した。彼らの巧妙なる手口は甘言で火中の栗を拾わさせることだ。アメリカは信用できる国ではない、騙されるまえに利用することを考えるべきだ。そして戦後史のある部分は墨塗りの教科書にする必要があると考える。


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この記事へのコメント

2009年09月15日 21:01
クリント・イーストウッドの映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』を見た。軍人は殆んど知らないが週刊現代ムック『栗林忠道からの手紙』を読んだ。保坂正康が栗林忠道の「12歳の日記について書いている。東条に代表される、陸軍幼年学校(13歳からの陸軍のエリート養成学校)から軍人としての道を歩んだ者は、必ず軍人勅諭の筆写を行ったり、あるいは「天皇陛下」や「忠君愛国」といった語を含んだ一文を決まりきったタイトル(「どのような軍人になるか」など)のもとで書かされている。」
栗林の12歳の時の日記帳は日々のゆとりある生活は、幼年学校組の軍人達とはあまりにかけ離れていたと保坂は言う。
「栗林の少年期の日記や作文を読んでの結論は、昭和陸軍の誤りは陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校のコースを一直線に進んだ軍人をエリートとして遇して、「人間」個々の姿を見ようともせずに戦争を行ったことにあった。
しばらく前に読んだ「尋常小学国史」等の皇国史観一元論が、軍人の中にも、一般国民の中にも、他の思考が入り込む余地なく吸収されたのだと思います。硫黄島の地獄で戦死した人々に対しては、何と言っていいか言葉が浮かびません。
2009年09月16日 22:57
忠君愛国とか皇国史観とか、言葉としては理解できますが、感情はやっぱり無理です。戦後生まれはだいたいそうじゃないかと思うのですが。天皇陛下万歳と言ったところが、相対的な天皇で国民との関係でしかわかりません。絶対的な天皇というのは、戦前の教育を受けていないと駄目なようです。十代にどのような思想教育を受けたが重要だと思います。
軍については組織は西欧の近代的なものでしたが、個々の人間の関係は前近代の義理人情の世界であったと思うのです。軍の上層部は陸大(あるいは海軍大学)の同窓で固まっているわけで、どうしても先輩後輩の関係で甘くなってしまいますね。これは今の防大にも言えることだと思います。さらに負け続けていても東郷平八郎みたいな人が表れていっきに逆転してくれるんじゃなかろうかという甘い期待が最悪の事態を招いたとも考えています。
戦争映画については、今夏、テレビで「硫黄島からの手紙」を観ました。そこで率直な感想をいうと、あれだけ緊張している状態だと戦争どころじゃないと思うのです。腰が立たないというか、もうぜんぜん無理だと考えます。「死」の恐怖からフッと解放されないと戦えないじゃないでしょうか。特攻隊が出発する寸前のフィルムを見たことがありますが、「ちょっと行ってくるね」といった感じで表情はサバサバしているんですね。あの当時の青年がどのようにして「死」を乗り越えたのか、また整理したものか本当にわかりません。これも戦後生まれには理解できない感情です。まだ、百年も経っていないんですがね。

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