「名人の歯医者」



名人の歯医者





 さっきから、うとうとしているが寝られないでいる。口中にねっとりとした痰がいっぱいで息苦しいのだ。吐きだしたいが、布団のそばに、手頃の容器は置いていない。洗面所に行って吐きだせば済むことだが、寒くて外に出たくない。それでどうしたらよいものかと思案していたのである。そのうちに眠くなるが、布団を汚すのが嫌なので、また目が覚めるのである。われながら意気地がないと思う。
 考えたって始まらない、さっさと起きて洗面所に行くしかない、ない、ないと自分に言い聞かせ、ようやく起き上った。口の端から、少し流れているのが冷たい。塩味がする。寝る前に吸った煙草とワインのせいかと思うた。足の裏が冷たいのでつま先立ちで、身体をこごめ、磨いたばかりの洗面台に吐き出すと、呼吸が楽になった。が、まだ口中はねばねばで塩辛い。吐きだした痰をみると、薄く赤みがかっている。肺や胃からの出血ではないかと疑った。とにかく口中に残っているねばねばを絞り出して、うがいをした。まずはこれで心が落ちついた。さて、原因は何か、とりあえず見当をつけておかねばならないと思うた。
 これは歯肉から膿が出ているせいである。鏡に映った歯と肉の境目から血が滲んでいる。肉は真っ赤に腫れている。試みに押したが痛くも痒くもない。ただ引き締まってないようである。昨夜寝るまでは何ともなかったのに、何故こんな事態になったのか。内臓出血でなくてよかったが、やっかいなことになったと思うて、すっかり目が覚めてしまった。明日は仕事を休まねばなるまい。
 夜、寝ないのは損だ、つまらない、口内炎なんぞに安眠を妨害されてたまるものかと考えているうちに寝てしまった。いつもの起きる少し前になったら、やっぱり口中に痰がいっぱいで息苦しくなった。時計が鳴るまで布団に待機して、ベルの音とともに起き上って洗面台に駆け込んだ。
 やっぱり赤みが差している。明るいから、昨日よりよくわかる。試みに前歯を押してみた。簡単に後ろへ引いたのに驚いた。隣の歯も同じであった。次々そうやって試したら全部の歯がグラグラである。今度は上の犬歯を引っ張ってみた。大根の根が土から現れるように、どんどん白い根が出てきた。そのまま、恐る恐る引っ張り上げたら、ついに抜けてしまった。案外と歯の根は長いものだと感心した。ぽっかり開いた傷口は赤黒くなっている。先のほうは暗闇で見えない。この歯は駄目だろうと思うたが、元に戻した。これでみると、全部の歯が抜ける寸前だと思うて怖ろしくなった。

 待合室は婆さんが一人だけだ。週刊誌を見てニヤついている。自分も表紙の角が折れた週刊誌を、婆さんにならって広げてみたが、ちっとも字が読めない。これから受ける宣告のことを考えると、呑気にしていられない。癪になって、週刊誌をラックに放り投げた。婆さんは老眼鏡の奥から蜆のような目でジロッと自分をとがめる。
なんとでも思え。落ち着かない、落ち着かない、落ち着くほうがどうかしている。
 ガラッと診察室のドアが細目に開いて、若い女の声で婆さんを呼んだ。そそくさと婆さんは診察室に消えて行った。ガラッとドアは閉まる。この世とあの世の境目みたいなドアだ。つぎは自分かと思うと居ても立ってもいられない。赤穂浪士が切腹の順番を待っているときの心境はこんな感じだったろうと思う。思うの半分くらいのところで、またドアがガラッ。
 今入ったばかりの婆さんが出てきて、椅子に置いてあったショールを引っ手繰って、自分をさっきの蜆でジロッとやった。あんな物、失敬するわけがないだろう。

 院長はレントゲンを蛍光灯にかざして黙した儘だ。こんな時に蠅が一匹、羽音を発てようものなら、緊張の糸はプツリと切れて、漏らしてしまうかもしれない。わたしは婆さんと入れ違いに地獄の門をくぐった。五十歳近い院長は、慇懃で安心したが、口中を見るなり眉間に皺をよせ、すぐさまレントゲン撮影となった。今、わたしは俎板の魚も同然で、院長の宣告を待つばかりである。どうせ自分の歯は駄目なんだから、抜くしかないだろうと腹を決めて来たものの、長年連れ添ったのだから心残りはやっぱりある。もしかしたら助かるかもしれないという希望も浮かんだが、すぐさま打ち消した。院長は咳払いをして、― いよいよ死刑の宣告か―
「これは難しいことになりましたなあ」と言って顎をなでた。
「どんな具合なんでしょう ?」
「うむ、全ての歯根が枯れてしまっていますな。つまり、あなたの歯は死んでしまっているのですなあ。早晩抜け落ちるでしょう。残念ですが…」
 覚悟はしていたが、やっぱり心は暗くなった。蛍光灯がいくつあっても足りない。総入れ歯になるのは嫌だ、嫌だ、でも仕方がないと思うた。
「それで、どういう治療になるのですか ?」
「うむ、全部の歯を抜いてですな、新たに種を植えるしかないでょうな」
 予想外の返答である。院長の言葉の途中までは理解できたが、後半はこれまで聞いたことのない治療法である。
「種と言いますと ?」
「歯の種ですよ。種がなければ畑に作物ができないのと同じですよ」
「なるほどねえ」とわたしは院長に調子を合わせた。
「やってみますか ?」
「ぜひ、お願いします」
 いかがわしいが、とにかく何でもやってみるしかないと思うた。院長は「さっそく、施術をしましょう」と言い、スリッパをピチャピチャさせ、奥の部屋に消えた。
 レントゲンは蛍光灯に挿んである。顎の骨に沿うで歯が並んでいるが、きれいなものだ。どこが悪いのか、見当がつかない。― さあて、いよいよ始まるのだな― うすぼんやりした頭で考えていた。
 ピチャピチャが戻って来て、診察台のライトを強くした。風邪薬大の瓶を見せる。光が眩しくって、よく見えないが仁丹を四等分にした大きさの白い粒が入っている。
「この種を、歯を抜いた穴に詰め込みます」と言う。わたしはうなずいた。どうにでもなれと思うた。
 施術はピンセットで歯をつまんで抜く。抜いた穴に別のピンセットで種を押しこんで、丸めた綿で栓をするという至極簡単なものであった。痛みはない。金属のトレーに抜いた歯の山が出来ていく。
 施術は瞬く間に終わって、院長はマスクをはずした。
「三日経てば、元通りになるでしょう。歯はお持ち帰りになりますか ?」
 と問う。持っていってどうにもなるものではないけれど、生ごみにされるのも気の毒だと思うたので、持ち帰って埋葬することにした。
「じゃあ、君」と院長は看護婦に目配せをして、居なくなってしまった。看護婦はトレーを横にして、チャックの付いたビニール袋に歯を流し込んで、わたしの鼻の先につまんで見せた。その仕草が、いかにも汚いものを扱っているようだったので、腹が立った。年は二十五を出ないだろう、細面で目が切れ長の美形で、じつは気になっていたのであるが、いっぺんで興ざめた。外面如菩薩内面如夜叉とはこういう女のことだろう。わかっただけでも得をしたというものである。わたしは自分と自分の歯を慰めた。

 顔の丈が縮まってしまった。それに唇が前に突き出たようである。道行く人はわたしの顔を見て笑っていないだろうか。なるべく視線を合わせないようにした。あるべきものがない顔はおかしなものである。禅智内供はあるべきものがなくなってしまったから、以前にもまして笑われたのである。三日の辛抱である。わたしは藁にすがる思いだった。
 第一夜が明けた。しっかり栓がしてある。昨日と変わりがない。肉は赤みがとれて、幾分締まってきたように思う。
 第二夜が明けた。昨日と同じだ。一日目はよいとしても、今日も何の変りがないので心配になった。爪楊枝で一つの栓を抜いて、点検してみた。暗い洞から歯のかけらのようなものが出ていた。
 第三夜が明けた。口中がごわごわしているので目覚めた。洗面台に吐きだしてみると、綿の塊である。舌に歯が当たる感触がする。鏡で見ると、昔のとおりになっていた。念のために前歯を指で押したが、ビクともしない。引っ張ってみたが、しっかり肉に喰い付いている。他の歯も同じである。院長は仏の化身かもしれない。
 わたしは昨晩、寝てから今朝起きるまで、もう三日も経ってしまったのかと思うた。





私の夢十夜 第三回


                                                          

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