「穴のアル部屋」

穴のアル部屋





 額の汗が目に入ってしみる。陽はまだ高い。わたしは男の影を踏みながら付いて行く。なんだか嫌になってきた。ふと眼を上げると男のつむじが見える。日焼けした地肌が油で光って汚らしいと思うた。小太りで目が細い三国人風の男は、わたしの思惑にかまわずにどんどん先に行く。街角をいくつか曲がって、ブロック塀のある建物の入り口で、それまで機械のように規則正しく動いていた男の足はピタリと止まって、振り向いた。猫がくしゃみをしたような男の顔は笑っているように見える。どんなときでも笑顔しか持ち合わせていない人間は、葬式のとき以外は得である。そういう点、わたしの顔はどうもいけないと思う。
「ここですよ、どうです」
 彼が外に出て初めて発した言葉である。わたしは世間話に調子を合わせるのは苦痛であるから、男が話しかけないのはよかった。とにかく見てからのことにしましょうと応じた。
 塀の中は雑木が植えられていた。剪定されたばかりのようだ、地面に干からびた葉が転がっている。飛び々々の敷石を伝わって、正面の赤さびた鉄製の階段を男は慣れた足取りで上って行く。この男は歩き始めると連れのことは眼中になくなる性質のようである。ここまで案内されて、引き返すわけにもならなくなったから、付いて行くことにした。階段は揺れはしたが案外と丈夫なようである。
 登りきったところを男は右に曲がって行った。わたしが登りきると男は一番奥でこちらを向いていた。いくつかのドアを通り越した尽きあたりが、今度わたしが借りようと思うた部屋のようである。男はズボンの後ろポケットから鍵束を引きずり出した。

 まったく急な転勤で私は面食らった。とても今の住まいから通える範囲ではなし、とにかく、家を借りなければならないと思い、駅前にあった周旋屋に飛び込んだ。それはビルの間に挟まれて、赤茶けたトタン屋根のしもた屋みたいであった。余裕があれば別のところに行くのだが、そう贅沢も言っていられない状況であった。
 わたしの希望は、どうせすぐ転勤になると思い、多少の難は我慢するが、できるだけ家賃の安いところであった。三国人風の男は腕を組んで考えていたが、
「ちょっと、いいのがありますよ」
 と言い、その物件を見に来たところである。しかし歩いているうちに、男の風体がみすぼらしく見え、嫌になってきた。

 男はたくさんの鍵が下がっている輪から、簡単にドアの鍵を見つけた。中に一歩入ると、熱の塊が襲ってきた。ますます嫌になってくる。玄関を上がってすぐが台所で、ガラス戸の奥に部屋があるようだ。男はスタスタと奥に行き、雨戸を開けた。
「いかがですか」
 わたしは男にならって入って行った。案外ときれいな部屋であった。日当たりもよい。だが、よく点検すると部屋の右手の壁に洋式トイレが付いている。いかにも場違いのものである。男は私の懸念を察したらしい。
「なにね、この便器は付いているだけで使えないんですよ。間違って大工が付けちゃたんだ」
 男はバツが悪いとでも言うように、頭をポンポンと叩いた。
「もちろん、本物のトイレと風呂は別にありますよ」
 と言い、台所わきの扉を指で示した。帰り際にわたしは部屋を振り返った。男はニヤリとして言った。
「シュールな光景ですな」
 確かに夕日に照らされた何もない部屋に便器が壁を突き破っている光景はマグリットの絵のようだった。

 異変は翌日から始まった。わたしが決めかねているのを見て、男はもう五千円家賃を値引きしてくれたのである。引っ越しといっても大した荷物はない。冷たい陶器の便器が部屋に入るたびに目に付くのは嫌なので、タオルを掛け、その上にペン立てやオルゴールや、造花を刺した花瓶を並べて、カモフラージュした。
 午後九時ごろ帰ってみると、それらが散らばっていた。そればかりではない、畳が埃でざら付いて、木の葉やら紙の千切れたのが転がっている。わたしは泥棒かと思うたが、窓の鍵はしまっているし、ドアも施錠がしてあったから、これはなにか別のことが起こしたのだと考えた。
 翌日も翌々日も同じ現象が続いた。四日目は日曜日であった。わたしは原因を確かめて、男に言おうと思うた。その日、朝から私は一歩も外に出なかった。時間が過ぎるのが待ち遠しい。午後四時になっても何も変化がない。そうして五、六、七と過ぎて行き、八時を少し回ったときである。便器の蓋が突然持ち上がって、あたり一面に載せてあった品をけ散らかしたのである。
 便器の中から風が出ているのだ。私は覗き込んで、その光景に驚いた。真黒な中に瞬く金平糖のようなものがいくつもある。体を乗り出して精査すると玉子の黄身に似たものが一個ある。それが夜空であるのを理解した。地球の底が抜けたといった感じである。と同時に私は非常な勢いで吸い込まれた。

 わたしは便器のへりにつかまろうとして、手を伸ばしたが遅かった。どんどん夜空に落ちて行った。便器の穴から天井の蛍光灯が見えている。ふたが閉まって辺りは真っ暗闇になった。その間もどんどん落ちていく。ペリカンに喰われた魚みたいだと思うた。もう諦めるより方法がない。
 どのくらい経ったかわからないのだが、いきなり地面に腰を叩きつけられた。とうとう空の底に来てしまったのだと思うて悲しかった。辺り一面真っ暗である。しだいに目が慣れて、周りを点検すれば、見慣れた光景である。ベッドから落ちたのに気づいた。





私の夢十夜 第一回


                                                        

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