「幻影の母」



幻影の母






 酷く疲れた。もうどこを歩いているのか、わからなくなってる。知らない駅で降りて、知らない道をひたすら歩いて、知らない家に飛び込んで、嫌な顔をされて追い出されるのが仕事である。今日はもう三十日である。今日中に一件契約を取らなければ、首だという。これまでは、なんとかごまかしてきたが、今度はだめらしい。陽は傾いている。心は焦るばかりだ。首になったら、なったですっきりするかもしれないと思う。しかし次になにをすべきかを考えると、やっぱり憂鬱である。
 考えるのはつまらない、考えてどうになることでもないし、そう思うと、なあに、もう首と決まっているんだから、町を探検してやれという気持ちになった。すると、わたしの心は元気を回復した。足も疲れたを言わなくなった。
どんどん歩いて行った。どこかで見たような町の景色である。懐かしい家並みである。そうだ、ここは子どもの時分、住んでいた町である。しかし、なぜ昔のままなのだろう。木の電柱は立っているし、丸いポストは口を開けている。どこかの家から煮物の匂いは流れてくる。お面を被った子どもがチャンバラ遊びをしている。割烹着を着た女性が向うからやって来て、通り過ぎて行った。わたしは疲れて頭がどうかしたのだ。
 ええい、ひとつ、自分の家に行ってみようと思うた。しかし、それはやってはいけないような気がした。歩きながら考えあぐんだが、行くのが義務のように思うた。そして行かなければならないになった。

 ついに自宅の前に来た。鉄の門に赤いブリキのポストが針金で結わいてある。××と書かれた下にわたしの名前がひらがなで刻まれて赤錆ている。これはわたしが釘でいたずらしたものだ。ポストの下に黄色いカナリアの巣箱みたいな牛乳箱が下がっている。ここは少年のころ住んでいた家に間違いがない。鉄柵から中を覗いてみた。
 あゝ、そうこの大きなモクレンの木を覚えている。正面にはブランコが備え付けられている。これは祖母が五月の節句の祝いに買ってくれたものだ。ここまで来ても躊躇した。門の中に入ってみるべきか。なに、入ったって構やしない。ここは自分の家だもの。それに外交がわたしの仕事だ。こんなところにぐずぐずしているほうが余程怪しいというものである。わたしは蛮勇を奮い起した。玄関のブザーを押す手が震えた。

 ノブが回らないことを望んだ。静かに帰って行きたかった。が、その希望はすぐに打ち砕かれた。内鍵のチェーンが外れて鈍い音を立てた。ノブがゆっくり回転する。脇から冷たい汗が流れる。足はふらついて倒れそうだ。期待と恐怖が入り混じった何とも譬えようのない感情が波のように押し寄せてくる。ドアはゆっくりと、細目にに開いた。わたしは来訪のわけを、半場震え声で告げた。
「そうですか、お入りなさい」
 鈴を転がしたような若い女の声である。間違いなく母の声である。母に似た声の女はいくらでもいる。しかし頭に焼き付けられた母の声を忘れやしない。わたしが躊躇していると、母は自らドアを押してくれた。

 わたしは夢中で話した。話すことはいくらでも出てきた。泉のように吹き出てくる。言葉のスピードがもどかしいくらいであった。わたしは上がり框に腰かけ、母は一段高い板の間に正座している。緑のブラウスに前掛けをしていた。夕飯の支度をしていた最中なのだろう。母はときどき口に手を当て、笑みを隠していたが、それは本当に楽しんでいるときにする仕草なのである。
 今のわたしより十歳以上若い母である。それでも母である。懐かしさが潮のようにこみ上げてくる。お母さん、わたしが誰だか知っていますよね、わたしはあなたの息子なのですよと何度言おうと思うたことか、それをやめさせたのは、玄関脇にある靴箱の上に置かれた金魚鉢である。
 それは白いレースの敷物の上にまるいガラス製で、波打った縁は青色で飾られてあった。底に黒と白の交ざった石を並べ、二匹の和金が泳いでいる。ときおりホテイアオイの根を食いちぎっては吐きだしている。母と話すのは楽しい、しかしこの鉢が目に入るたびに不安におそわれた。奥の部屋からドスンと音がした。母は後ろに首を向ける。不安は的中した。

 心残りは山ほどだけれど暇乞いをした。母も止めなかった。契約はもらうことができ、今月は首がつながって、うれしい思いでいっぱいだった。母は門のところまで見送ってくれた。玄関で下駄を履く音がする。急がねばならないと思うた。
「では、これで、また…」
 と言ったときである。母は話を遮って、
「もう、来られないかもしれませんね」
 小さな影の気配がする。わたしは振り返ってはならないと感じた。陽はほとんど落ちてしまっている。坂の上まで来たとき、こらえ切れなくなって振り返った。母は心配そうな顔で道に立っていた。母に寄り添うている者がいる。わたしは黙殺した。かまわず先を急いだ。頬に涙が流れた。もしかしたら、「もう来ないでくださいね」と言ったのではないかと思うた。もしかしたら、訪れてはならない客だったのだ。わたし自身のためにも、生きなければいけないと思うた。





私の夢十夜 第二回


                     

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