「三人の女」

三人の女





 わたしは干し芋を喰うて、山路を歩いている。どこの、なんという山だか、知らないが、それで結構だ。適当に電車を乗り継いで、適当に山が有りそうなところで降りて、適当に歩いてきたら、うまい具合に山路になった、という次第である。こんな酔狂な真似をするのも、世の中が鬱陶しくなったからである、考えるのが面倒になったからである。一度壊れてしまったものは、どうにもならない。悩むだけ、人生の浪費というものだ。同じ浪費するなら、身体を浪費したほうが、精神衛生上によいと思うて、只管歩くことにした。どこを歩いているのだか見当がつかない。
 しかし、狭い日本のどこかであるから、迷子になることはないだろう。もう、ずいぶんと歩いてきたが、一向に人に逢う気配がない。好都合だ、人間くらい喧しい動物もないのだから、逢うてつまらぬ関係を持たされるのは、御免である。と、こう書けば、「草枕」の主人公のようだ。
 遠くのほうで、小鳥がチッチと鳴いている。歩き疲れて、何もかも忘れてしまいたい。
 路の傾斜が険しくなる手前の石に、白手拭いで、頬冠りした婆さんが座って、煙草を吹かしている。あゝ、ついに儜猛なる人間というものに逢ってしまった。なあに、わけはない、知らんぷりをして通り過ごせば、済むのである。
 気を悟られてはならぬから、無縁坂の真似をした。円錐の立法積は、とうに忘れている、記憶の欠片(かけら)も残っておらぬから、(x+y+z)²を解いて誤魔化すことにした。x²+xy+xz+xy+y²+、とここまではよかったが、一瞬、婆さんとすれ違う隙に目が合うた。すかさず、「もし、もし旦那」と言う。旦那と呼ばれるほど偉物ではないが、わたし以外に人はおらぬから、足は条件反射で止まる。方程式は跡形もなく消え失せた。仕方がない。
「わたしのことか ? 」
「すまんが、頼まれてほしいのだがね」
 人と口をきくのは、一昨日の晩、赤羽の停車場で、島木君と別れて以来である。婆さんは、せっかく捕えた獲物を離すものかと、蜘蛛が糸を手繰り寄せるごとく、手招きをする。牛蒡のような指に金の指輪が光っている。
「すまんが、ほれ、これをな、坂の上に木があるだろ、そこまで持って行ってくださらんか ?」
 と金の指輪が示すほうを見れば、口のほうだけ上薬を掛けた素焼きの壺がある。荒縄で首を括って持ち手にしてある。木の栓がしてあるから、中は見えない。
「腰が痛くってなあ」
 頼まれごとは懲り々々であるが、この程度なら問題はなかろう、わたしは引き受けた。
「木のところまでで、よいのだね」
「そこで別れ路になっておってな、右は下りで村に行けるからな。あとはなんとかなるさ、さあてと、先に行っておくれでないか、すぐに追いつくからのう」

 壺は案外と軽かった。が、時折り、中の物が左右に動いた。液体でないのは明らかで、生き物が入っているようである。わたしは壺を木の根方に据えた。煙草を吹かす間もなく、婆さんは坂を上って来た。流石に土地の者は路に慣れている。婆さんは頬冠りを解き、顔の汗を拭った。皺の中に顔が埋もれているようで、小田原に行っても、これほどよく漬かった梅干しはあるまい。婆さんは背伸びをした。
「あゝ、助かった、助かった。すまんことをさせたのう」
「壺の中はなんだい ? 」
「ながむしだよ」
「分らんねえ」
 婆さんは腰に差した鎌を、壺の栓に打ちつけ、引き抜いた。腕まくりをした右腕が、素早く壺に入る。しばらく中を探っていたが、ピタリと止まった。ながむしを捕まえたようである。ゆっくりと右腕が壺から出てくる。
「何をするんだ ! 」
 取り出したのは、長さ三尺ほどの蛇である。婆さんは蛇の首を、親指と人差し指で、締めている。背は茶褐色で腹は白い。胴体はダラリと垂れ下がっている。大きく開いた口の肉から、二本の毒牙が出ているが、この姿勢ではどうにもなるまい。わたしは蛇を認めると、飛び退いた。
「いかんかね」
「先に言ってくれなくては困るよ。わたしは蛇が嫌いなんだ。もういいから、しまってくれないか」
 婆さんは蛇を壺に戻して栓をした。
「これをな、焼酎に漬けるんだ。この辺の嫁は、もっと恐いことをしてるからな、ながむしで恐がる者はおらんよ」
 と言いながら、信玄袋の口を開けて、白い紙袋を取り出した。
「運び賃代わりに、これを持って行きなされ」
 わたしは断ったが、是非にと胸に押し付けるから、ここは受け取るのが礼儀に適うであろう。紙袋には、角に切ったゼリーに、砂糖をまぶしたのが、入っていた。ゼリーの毒々しい赤や緑、黄色が、いかにも鄙びた山に相応しい。婆さんは、壺を抱えて、右の路を下って行った。

 路は平坦になった。さっきから、蛇が出てくるような気がしてならないのは困った。婆さんは、人の足音を聞くと、蛇の方で先に逃げて行くから、滅多に出くわすことはないと言っていたが、不安は募るばかりであった。用心のため、スッテキ代わりの棒切れを拾って、路を突いて歩いた。人助けをしたまではよいが、余計なことを聞いたものである。他人に深入りすると、自分が損をするに決まっている。なまじの人情は捨てるべきだと思うた。
 路は左にカーブして、その先に橋があった。欄干に女が背をもたせてしゃがんでいる。長閑な田舎道に不釣り合いの光景である。逢ってしまったものを、このまま放って置くわけにもいかない。それは人情からではなく義務としてである。
「もし…、気分が悪いのかい」
 女は首を軽く縦に動かした。
「話せるかい 」
「いえ、ありがとうございます…、なんでもありません、ちょっと立ちくらみがしたものですから…」
 と俯いたまま、途切れ途切れに応えた。わたしにではなく、自分に言い聞かせているようである。
「大丈夫なんです。ええ、もう直りましたから…」
 よろけながら立ちあがった女は、白い風呂敷に包まれた、ちょうど茶箱を八等分にした大きさのものを抱いていた。年は三十を超えないであろう、紺色の着物に茶の羽織をかけ、髪を後ろでまとめている。額は広く、切れ長の目をしている。血の引いた頬に張りついた遅れ毛の幾条かが、口の端に入り込んでいるは、凄味がある。病院から抜けてきたのかもしれない。女はわたしに構わず、橋の上を歩きだした。わたしも後を追うように歩き、問うた。
「この路を行くと、どこに出るのだね」
「温泉町に出ます」
「だいぶあるようかね」
「男の人なら日暮れまでには着くでしょう」
「あなたも、温泉町に行くのかい」
「いえ、私は…… 突きあたりの道祖神を右に折れます。温泉町は左に行ってください」
「そうか、では道祖神まで荷物を持ってあげよう」
「あっ、これは…」
 と胸に引き寄せたので無理強いは止めた。私の介入を拒む気配が感じられたからである。よほど大切なものなのだろう。女は包みに頬を寄せ、「もうすぐね、もうすぐだからね」と呟いた。わたしは、その意味を解しかね、訊ねようと思うたが、先刻の婆さんの例もあるし、非人情の旅に出たのに、興を削がれるのも詰まらないことであるから、放って置くことにした。二人は無言で歩いて、無言で別れた。私は三十セコンド経って振り向くと、木の間に姿が隠れたり、現れたりしていた。女は体の病より、もっと大きな悲しみを持っているようである。しかし忖度するのは面倒だ。

 路はつづら折りになっていた。女と別れて一時間は経っているだろう。左右から笹が伸びて歩行の邪魔をする。わたしの頭は、蛇の次に女のことでいっぱいになった。考えまいと努力しても、自然と浮かんでくる。長くなった影を踏みながら考えた。あの人を恐れ、拒む態度はどうしたものだろうか。きっと何か、あるに違いない。そこまで考えても、あとが続かなかった。だから余計に憶測をする。この繰り返しだ。
 美子が、あの女に重なって来るのが恐ろしかった。美子は意識を回復しただろうか、一昨日の昼、島木君と病院を訪れたときは、目を瞑ったままでピクリとも動く気配がなかった。院長の話だと、もう二晩は眠ったままだそうだ。あの女の血の引いた顔の透明感は、美子と同じである。もしかしたら、あの女も、と云う気がしないでもない。いや、もう止めよう。済んだことは、元に戻りはしないのだ。
 日は西に傾いた。遠くのほうで湯けむりが数本、上がっているのが見える。どうやら野宿をしないで済みそうだ。安堵の心は休憩を欲した。わたしは腰かけになりそうな石か、切り株を物色した。
野宿が嫌さに進んでいたときは有ったが、探すとないものである。追いかけると、逃げられてしまうのが、わたしの人生かもしれない。そうすると美子が出てくるのだ。ええい、どうにでもなれ。
 歩く目標にしていた大木のところまで来た。すると木の根元を結んで藁縄が地べたを横切っていた。わたしの片足が跨ぐと、「通行料を置いてけ」、と云う声が、木の裏側からした。甲高い子供の声である。
 一呼吸の間に、女の子が現れた。おかっぱ頭でリンゴのような頬をしている。丈の詰まったズボンに、赤い丸首シャツをたくしこんで、薄汚れた足に、安物のゴム草履を突っ掛けている。
「通行料をおくれ」
 と右手を出した。まるでくも助だ。懲らしめようと思うたが、その手に乗ってやるのも面白い。
婆さんにもらった菓子包みを、手に乗せてやった。早速、包みを開いた子供は、嬉々とした笑みで顔面がいっぱいになった。赤いゼリーを摘まんで口に放り投げる。くれてやって、よかった。が、
「お彼岸の日みたいだあ」
 子供らしからぬことを言う。
「では通らせてもらうよ」
「おじちゃん、待っておくれ」、と袖を引っ張った。案外にも、力の強いのに驚いた。
 顔から日の暖かさは失せ、口をへの字に曲げ、目つきは恨めしくなっていた。
「どうしたのだ」、と問えば、地べたを右の人差し指で示した。ゴム草履の上に置かれた両足の股から血が滲んで いる。わたしは背嚢から、ひげそり用の軟膏を取り出し、皮の向けている処に塗った。包帯で巻きたいが、持ち合わせがないので、ちり紙を代用してあてがった。
「これで、少しは楽になっただろう」
 女の子は合点々々した。近在の子供のようだから、放っておいても帰れるだろう。わたしは先を急いだ。すると、わたしの鈍い靴音に混じって、草履を引きずる嫌な音がする。わたしが止まって振り返ると、草履の音はピタリと止むんだ。しばらく無視して進んで止まってみた。草履の音も止まった。わたしの後を、等間隔で付いて来ている。わたしを、はにかみの目で追うているのが分った。菓子と傷の手当てが効いたようである。歩きながら問うた。
「家はどこなのだい」
「あっち」と東南の方を指で差した。その方角は人家の屋根が点在している。
「学校は」
「知らん」
「歳は」
「知らん」
「父さんと母さんは」
「知らん」
 返事はノン、ノンばかりだ。しかし受答えは明瞭であるから莫迦ではない。
「家には誰がいるのかい」
「和尚さんがおる」
 寺の子供かと思うたが、自分の父親を、和尚さんと呼ぶのは変だ。親は寺男かもしれない。あるいは養子ということも考えられる。いずれにしても、わたしには関係のないことであるから、打っ棄っておいた。

 路の先に控えている山の、もう一つ先の山に厚い雨雲が懸かっている。追い風であるから、こちらには来ないだろう。鬱蒼とした森林のようである。雲間から一筋の閃光が流れた。続いて雷鳴が轟いた。それを合図に、堰を切ったように、閃光は天を駆ける。雷鳴が追いかける。日は照っているが、不案内の土地での驟雨はやりきれない。草履の音がないので、振り返ると、女の子は地べたに丸くなっていた。
「ここには、落ちないから大丈夫だ」
 早く来るよう、手招きをした。これしきの雷を怖がるのだから、やっぱり子供である。女くも助も形なしだ。わたしの励ましで、身を屈めて駆けて来た。二人で天を仰いでいると、一際大きな閃光が走った。青白い光は周りのものから色を奪い、世界をモノクロにしてしまった。ぞくっとする光景が拡がった。女の子は両手で耳をふさいで駆けだした。草履のバタバタする音が木魂した。さて、もうすぐで日が落ちるだろう。わたしも愚図々々していられない。
 宿に着いたら、二通の手紙を認めねばなるまい。一通は島木君へである。今回のことで島木君には世話になった。しかし結果は思わしい方向へ向かわなかった。わたしのどっち付かずの考えが、いけなかったのは分っている。美子を破滅に追いやった原因は、すべて自分にある。同君には、自分のこれまでの経緯、これからの処置について、腹蔵なく話すつもりである。美子は島木君が、なんとかしてくれるだろう。しばらくの間、自分は東京にいない方がよいと思うて旅に出た。島木君はわたしの内情を理解してくれることと思う。一通は会社へである。こうなった以上、辞めるしかない。今日は土曜日である。速達なら、火曜日の朝には着くだろう。
 ふところに手を入れると、干し芋が二枚、残っていた。





私の夢十夜 第六回


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