「不思議な花」

  


  不思議な花





 僕の意思に反して体は、鍵を回す時間さえ勿体ないと感じていた。それほど疲れていたのである。電柱を一本越したら、次の電柱をペースメーカーに深夜の町を歩いてきた。砂ぼこりに塗れたアパートの蛍光灯が、ほんのりと見えたとき、僕の体は元気を回復した。それはマラソンの選手が最後のコースを回るときに、すべてのエネルギーを出し切るのと同じ現象で、自然に体が苦痛から逃れる嬉しさに凱歌を上げたのだ。鉄製の錆びた階段を上って、一番奥の部屋のドアの前に立った。あとはドアの鍵を回して、テープを切れば、レースは終わる。この感激を終わらせるのが、勿体ない気もした。
 僕の今日は終わった。あとは気の済むまで倒れておればよいのだ。靴を脱ぎ捨て、部屋に滑り込んだ。硬い畳のひんやりした感覚が心地よい。僕の意識はそれでも、まだ働いていて、今日の出来事が脳髄に点綴されるが、放り出されたネズミの死骸みたいな僕の体は、しだいに溶ろけて畳に吸い込まれるにつれ、薄れて行った。僕は……僕は明日になったら、僕の存在は無くなって、畳の表面に僕という存在が確かにいたという、黒い人型の痕跡を残しているだけになっているかもしれない。ブーンという扇風機の唸り音が心地よい。それもしだいに遠のいた。すべてのものが消え行く。体の現実感も意識も、とうとう失った。
 遠いところで複数の男女が話している。途切れ\/に聞こえてくるけれど、何を話しているのか、さっぱりと分からない。そうしているうちにも、声は近づいて来る。僕はひんやりした綿の中に埋もれているみたいだ。さっきからトイレの消臭剤に似た匂いが、漂っているのも気になる。僕は目を開いて、それらのことを確かめようと思わなかった。体力が十分に回復してなかったからであるが、それよりことの次第を確かめたい好奇心に駆られた。僕には理解できている、この現象は夢であるのが。目を開けば、すべては雲散霧消してしまうのだ。声は明瞭になった。
若い女(A)「まあっ―、きれいなお顔ね」
若い女(B)「ほんとうに、きれいだわね。生きているみたいだわ」
中 年の男 「まだ二十四時間経ってないからなあ。若いしね。我々くらいになると、こうはいかないよ」
若い女(A)「おじ様、わたくし驚きましたわ。だって夏雄さん、亡くなるお年でないのですもの」
若い女(B) 「 わたしもよ、最後にお会いしたのは、去年の春だったわ。電車の中で偶然」
中 年の男 「人の命なんて儚いものさ。順番からいえば、私が一番先さだ。それがどうだい、神のみ心は気紛れだな」
若 い 男 「僕はおばさんから連絡受けて、すっ飛んで来たんだけれど、どうして死んでしまったの」
若い女(B)「お医者さんが言うには、熱中症だって。昨日の午後ね、暑かったでしょう。それでね、夏雄さんたら、初版本集めが趣味じゃない。土曜日で仕事が休みだから神田を歩き回ったらしいのよ。水道橋近くの街路樹に背を凭れて坐ってたんですって。だけどあの辺りって、ホームレスとかニートがいっぱいでしょう。だからみんなね、そういう人が昼寝してると思ったんだわね。ちょうど東京医科歯科大学の学生さんが通ったのよ。なんだか顔色が普通じゃないと気が付いて、肩をゆすったら地面にバタリと……。救急車を呼んだのだけれど……」
若 い 男 「そんなにあっけなく人は死ぬもんだろうか」
中年の男 「運だよ、運、運。諦めるしかない」
若 い 男 「どんな本を買ったのだろう」
若い女(B) 「三島由紀夫のが二冊。胸にしっかり抱いていたんですって。もう一回包み直して、ほら脇に入れておいたわ」
中年の男 「つまらんことをしてくれたもんだ」
若い女(B) 「夏雄さん、たばこが好きだったから入れてあげましょうよ。えーと、あの赤い箱の、忘れちゃった」
若 い 男 「ラークのロング」
若い女(B) 「うん」
若 い 男 「どうせ灰になちゃうんだから、一番安いのでいいんじゃないか」
若い女(B) 「まあっー、ひどい人」
若 い 男 「いや、すまん。明日、僕が一カートン持ってくるよ」
若い女(A) 「ねえっ、目が動いた!」
中年の男 「そういう気にもなるよ。もしかしたら生きてるんじゃないかと私も思うからね」
ドアノブが鈍い音を立てて廻る。
中年の女 「さあ、控室でお茶の用意が出来ましたから、今日はこれで解散しましょう」
中年の男 「あゝ、それじゃ明夫君、ふたを被せよう。向こうを持ってくれたまえ」
光はさえぎられた。僕の周りから声が遠のいて行く。
若い女(A) 「おば様、夏雄さんの目が動きましたのよ。信じてくださいますわね」
若 い 男 「だから、気のせいだよ」
中年の男 「それでお前、夏雄君のお母さんは大丈夫か。――――。えゝ、――――。そうか、――――。それなら――――」
中年の女 「ええ、そうなのよ、あなた、――――。でもね、こんなことに、――――。気落ちして――――」
中年の男 「そうだなあ、――――」
中年の女 「でもね、――――」
中年の男 「――――」


 知らない人たちである。第一に僕は夏雄という名ではない。察するに、僕は死んで、棺桶に横たわっているのだ。へんな夢を見るものだ。彼らは僕が死んでいると思っている。おかしくて、笑いをこらえるのに必死だった。パチリと目を開いて、ムクリと起き上ったら、仰天して腰を抜かしてしまうだろう。それとも夢であるから、すべて消えてしまうであろうか。こう考えているうちに、目玉が動いて女に見つかってしまったのである。
僕は泥酔しているのだ。再び眠りに落ちて、明日の成り行きを見るのもおもしろいと思うた。しかし寝すぎて、業火に囲まれているのは恐い。
 目前の天井を持ち上げた。淡い光線が僕に注いでいる。蓋を除けて、上体を起こしてみる。周りには菊や百合、薔薇、その他の花がもう散らしてある。それらの花の匂いが入り混じって、トイレの消臭剤みたいな香りになったのだ。箱の外は小さな祭壇が据えてあり、電気仕掛けのロウソクが二本灯っているきりだ。僕は白い浴衣を着せられていた。
 硬い床の感触は、素足に気持ちがよい。箱は飾りの付いた台に乗せてある。細目にドアを開けてみる。誰もいない。霊安室を抜け出して、廊下をまっすぐに進むと、玄関があった。手垢で光った帽子が、窓口にぽつんと置かれてあった。受付の警備員は、右腕を枕にして机にうっぷしている。
 僕は外に出た。星が輝いている晩である。悪夢から覚めた解放感で体がいっぱいになった。しかし感傷に浸っているところを、人に見つかったら何が起こるかわからない。とにかく逃げ出すべきである。僕は一目散に走った。浴衣の帯が緩むが構っていられなかった。小石が足裏を突いて痛かった。何処を走っているのか、さっぱり分からない。しかし走った先にアパートがあるに違いないと思うた。
 部屋に飛び込んだときは、疲れて倒れ込んでしまった。どうにでもなれと思うた。

 鈍くて太い音がする。隣のばあさんが布団たたきをしているのだ。祭りの太鼓みたいに景気がよい。頭はまだ痛い。喉はカラカラだ。昨日は木村と前島に誘われて、飲みに行ったのが脳裏に蘇った。僕は悪酔いして、死ぬ思いで帰ってきたのである。二人と何処で別れたか、記憶にない。カーテンを開けると、太陽は燦々と輝いている。コップの水を飲みほして、顔を洗った。そのときである、ワイシャツの襟から軽いものが、流し台に転げ落ちた。それは菊の花であった。




私の夢十夜 第七回


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