「電影人間」

  電影人間
 




 暑い日である。僕は失業しているので、扇風機でさえ遠慮がちに廻している。午前中にハローワークを見てきたが、応募したいと思うところはなく、けだるい足を引きずって戻ってきた。失業してから一年が経とうとしているが、最初のうちこそ焦りもしたが、失業という状態に慣れつつある。社会が自分とは無関係に動いているのを、客観的に眺める余裕さえ生じている。しかし僕は何とかして、僕と社会を隔てる薄皮を破いてやりたい。破かなければならないのだ。ところがこの暑さで、体が言うことを聞かないので、やり切れない。僕の精神も堕落した。今日は仕事がない、しかし明日はきっとあるという希望的観測が頭を支配するようになった。明日もないのが分かっているのに。預金はかなり崩したが、まだ行けることがいけないのかもしれない。預金といってもたかが知れているから、こんな生活を続けていたら、いつかはホームレスになってしまうだろう。それは十分承知しているのに、朝が来て夜が来ての生活を続けているのだ。
 それにしても今日の求人は干上がっていた。盆休暇でハローワークは古い求人ばかりだった。
 僕も人並みにバカンスに出かけたい気持ちはある。しかし行けば金は消える。消えた分は元に戻らない今、考えは自然と消極的になる。いつもは図書館に行って、夕方まで時間を潰すのだが、今日の暑さは格別で外に出るのが億劫になる。それにハローワークから帰ってきて下着を替えたばかりなのだ。脱ぎ捨てたのは、絞れば雑巾のように汗が滴り落ちるだろう。太陽は安アパートのトタン屋根をジリジリと焦がしている。夏休みだというのに、子供の声一つしない。
 僕は扇風機を強にして、柿ピーナッツをつまみにビールを舐めて横になっているより、午後を凌ぐ方法がなかった。うつら\/しながら、様々な想いが去来した。失業すると付き合いの幅が狭くなる。二、三日人と話をしないことも珍しくはない。恐ろしいのは、どうかすると人が面倒に思えてくることだ。それが嵩じると引きこもりになるのだろう。僕にも確実に、その兆候は表れている。最近は隣の婆さんと挨拶を交わすのが嫌で\/たまらない。以前は、そういうことはなかった。失業状態であるのを知られるのが怖いということもある。普段の付き合いはないけれど、悪い噂は広まるのが早い。ともかく引きこもりだけは避けねばならないと思う。
 対策として、起きているときはテレビをなるべく付けるようにして、プライベートの中に他人が土足で上がり込んで来るようにした。これだけでもだいぶ違うだろう。別にみるわけではないけれど、プライベートを邪魔してくれるだけでよいのだ。
 高校野球が始まっていた。野球の泥臭さは我慢ならない。だから好都合なのだ。何処の高校が試合をしているのか、さっぱり分からないが、騒々しいだけで十分なのだ。ビールが効いてきて、僕の頭は薄ぼんやりしてきた。
しかし僕は感じているのだ。僕以外に誰も居ないはずの六畳一間のアパートの一室に、人の気配がすることを。僕に向けられた視線は確かにある。部屋は二階で道路に面しているから窓からではない。玄関の鍵は居留守をするために、常に降ろされている。
 電車の中で退屈まぎれに、知らない人を見ていると、やがてその人は気が付いて視線を返してくることがある。反対に僕が見つめられて、視線を返すこともある。こういう経験は誰にもあるだろう。僕は視線の正体に見当が付かなかった。
 今の自分は社会から見捨てられて、どうでもいい存在である。見られて困ることなど探してもない。僕はふと、テレビの高校野球に目を落とした。おやっ、あの男視線ではないかしらと思うた。バックネット裏の右側、下から三段目の席に腰を下ろしている男である。年は四十代後半ぐらいで、全体に丸みを帯び、白の開襟シャツを着ている。坊主頭(だと思う)に折りたたんだ白手拭いを乗せて日除けにしているから、表情はよくわからないが、幾分笑みを含んだ口元から、白い歯が見え隠れしているのが印象的であった。彼の見ているのは、目前の野球でなくて、僕であると咄嗟に感じたのは、神経を病んでいるせいかもしれないと思うた。莫迦\/しいじゃないか、つまらないことに拘泥するだけ損だ。僕は子供らしい考えを即座に打ち消した。僕はビールを一気に飲み干して、幻想であるのを証明するため、テレビ観戦することにした。生暖かくなったビールは苦みを増していた。
 しかし野球に集中することができなかった。僕の視線は、しばしば白手拭いの男に向かった。そのたびに、男は親しみのある顔を見せていた。冗談じゃない、見ず知らずの男に悩まされてたまるものか、今度はこっちから攻撃してやろうと思うて、僕は男から目を離さないようにした。男も僕を見続ける。
 カーンと心地よい金属音はヒットが出た時だった、カメラはバックネットから外野に切り替わった。その瞬間、僕は男が右手を高々と挙げ、僕に自分の存在をアピールするのを見てしまった。もはや幻想なんかじゃない、テレビの男は僕に合図しているのだ。彼はいったい何処の誰なんだ。僕には見当が付かなかった。
 内野に球が戻ったとき、玄関で呼び鈴の音がした。僕はドアを開けて驚いた。太陽を遮って、テレビの中の男が仁王立ちしているではないか。僕の体は硬直して心臓が止まりそうな勢いであった。おそらく蛇ににらまれた蛙の心境はこんなものであろうと思う。男も僕の様子に驚いて、無言の儘、しばし二人は対峙した。均衡を壊したのは男だった。
「暑いですねえ、新聞の集金よろしいでしょうか」
 ……新聞の集金……あっそうか、新聞屋の人じゃないか。僕の意識は急速に回復していった。目の前に立っている集金人はテレビの男と似ているところはぜんぜんなかった。僕の脳に男の幻影が擦り込まれた結果だった。そう思うと急に腹立たしくなってきた。
 あいかわらず野球は続いていた。僕が戻ってくると、男は立ち上がり両手を振って、存在をアピールしてくれた。
 僕にも考えはある。テレビの電源を切ってしまえばすべては終わるのだ。携帯電話のカメラで一枚写真を撮った。これはあとで分析するためにだ。忌々しいやつだ、これで終わりだと思い電源を切った。今年は高校野球なんか、これで見るものか。
 さて、それからの話は手短に書いておこう。

 僕は画像を精査した。事情を知らない人が見たら、さぞや詰まらない画像と思うことだろう。ちょうど、男が立って両手を振っているときだ。静止画像を見る限りでは、僕に合図を送っているとは断言できない。やっぱり長期にわたる失業で精神が疲れているのかもしれないと思うた。僕は幻想と診断して、画像を消去して、このことは暫く忘れていた。しかし一か月も経ったころ、待ち受け画像に消去したはずの男が現れたので驚きもし、気味が悪くなった。冷静に考えれば、僕は携帯電話の操作は苦手で、実は消去したつもりでいたに過ぎず、何らかの操作上のミスで待ち受け画像が変更されてしまった可能性もあるのだ。今度は慎重に消去した。
 しかし翌日、待ち受け画像に男が写っていた。これではっきりとした。これまでの異変は僕の精神状態と無関係だったのだ。僕は消去する、男は現れる……。いたちごっこは続いた。ある日、時間を見ようとして携帯を開くと、男は僕をあざ笑うような笑みを浮かべていた。その日、僕はひどく機嫌が悪かった。我慢しきれなくなって、携帯を道路に投げつけた。しばらくして、液晶がアスファルトににじみ出た。これで僕の話はおしまいである。
もしかしたら、男はぼくにとって、福の神であったかもしれないと思うことがある。男が現れてから僕の運はにわかに好転したのである。男がいた間、就職は易々と決まったパチンコをやれば球は出る。懸賞小説は佳作に入賞した。携帯を壊してから、坂を転げ落ちるように運は去って行った。
 今年の夏の暑さは異常である。僕は再び失業して、仕事を探す意欲も無くなってしまった。ボロアパートの一室に閉じこもり、高校野球を見る日が続いている。僕は野球を見ているのではない。観客の中に白手拭いを頭に乗せたあの男が現れるのを待っているのである。しかし一向に現れる気配はない。





私の夢十夜 第八回


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