「雨に咲いた薔薇」

  


   雨に咲いた薔薇





「まったくよく降るものだねえ」
「なにね、もう少しの辛抱だ、今度は雨が降らなくてさ、恋しくなる」
「そう願いたいもんだ。俺の仕事は雨にからっきし弱いときてらあ。午前中は小雨で、まあ何とかよかったが、この降りじゃ今日はおしめえよ。雨が降ってるのによお、干上がってしまうわ。こんちくしょう。会社のほうは仕事をした時間分しか出さないときてる。がめつらいやつらめ」
「俺も同じだ、儲けるのはいつだって社長と決まってるのさ」

 六月もあと三日で終わりというのに、梅雨明けの気配はまったくない。もう七日連続で雨降りだ。町の塵はすっかり洗い流されて、水に濡れたあらゆるものはニスを塗ったように艶やかで濃い色合いになっていた。
 僕の安アパートは水を含んだ空気が充満して息苦しく感じた。それは肌にまとわりついて、べっとりした嫌な感じがした。ロープに下げた洗濯物は乾く気配を見せない。こんな日にハローワークまで仕事を探しに行くのは、いかにも貧乏くさく思ったので、眼を瞑って、適当に本棚から引き抜いたものを読んで気を紛らわすことにした。
 指はごく自然に、あらかじめ決まってでもいたように薄い文庫本を選びだした。そいつは太宰 治の「斜 陽」だった。咄嗟に選択を誤ったのを悟ったが、何かに集中していなければ、悪い妄想で頭がいっぱいになるのでしばらく読むことにした。実際、失業者の空白の時間ぐらい恐ろしいものはないのだ。悪鬼がそれっとばかりに襲ってくるのである。が、この試みは失敗した。陰気な上に陰気な考えで頭はいっぱいになってしまったのだ。
 煙草を探したがない。― 蛇の卵の事があってから、十日ほど経ち、不吉な事がつづいて起こり、いよいよお母さま ― のところで本を投げ出した。こうしてはいられない、煙草を買いに行かなくちゃ、と外に出る口実が出来たからである。こんな些細な用事でもありがたい。アパートからすぐのところにコンビニエンス・ストアがある。その道に沿った舗道は工事の最中で、掘り起こした土砂やコンクリートのかけらが雨に溶けて汚らしかった。
 僕は店の端に遠慮がちに置いてある灰皿のところで、買ったばかりの煙草をケースから無造作に取り出して火を着けた。道路工夫とそこの警備員が先客で、仕事が早く引けたのを悔しがっていた。僕は靴が濡れるのを気にしながら、二人の会話を聞いていたのである。
「面白くねえ」
 警備員の男は、吐き捨てるように言って、吸い口の手前まで来た煙草を灰皿に押し付けた。僕は道路を隔てた向こう側のアパートの一部屋だけに、明かりが灯っているのが気になった。二階の右端である。煌々と蛍光灯の明かりが、すりガラスを通して漏れてくる。女の影が動いた。僕はその女を知っている。

……飲みかけのコーヒーはすっかり冷たくなっていた。ドアの呼び鈴を押す者がいる。それはけたたましく、面会を催促する響き方であった。なぜか、電話の発信音とか、ブザーの音には、相手側の意思が混じってることがある。その響き方で向こう側の人が分かるときがあるのは不思議だ。さあ、出て来ないでは済まさぬぞ、居留守は分かってるんだ、という意思が伝わってきた。嫌な感じ。
 ドアを開けると、宅配便の男が仁王立ちしていた。由紀子は長方形の箱を受け取った。大きさの割に軽いのに驚いた。いや、本当に驚いたのは、箱の中央に張り付けてある伝票の差出人を見たときである。三月に交通事故で死んだ婚約者の名前であったからだ。友達の悪戯ではないかと疑ったが、伝票の文字は確かに雅夫が書いた字である。
 宅配便の男は知らないうちに消えていた。町は雨でが霞んでいる。大急ぎで箱を開けると、セロハンで包まれた赤い薔薇の花束があった。中央が金色のリボンで結ばれていた。花束を抱き上げると、一枚のカードがこぼれ落ちた。二つ折りにした紙片をひろげると、武骨な字でオメデトウの四文字が記されている。今日は由紀子の誕生日であった。由紀子は雅夫が生きているに違いないと思った。が、その考えはすぐに打ち消さなくてはならなかった。救命センターの霊安室で彼の遺体を見たからである。
 花屋に電話をすると、三か月前の注文であることがわかった。由紀子はすべてを理解した。雅夫はアメリカに出張に行くことになっていたので、今日のために注文をしていたのである。それからあとは話す必要はあるまいが、とにかく僕は悲劇的な瞬間を見てしまったのだ。

「面白くねえな」
 いかにも嘲笑の感じがこもった同間声が、僕の感傷を引き裂いた。声の主は僕の横で二本の煙を鼻から出している警備員である。ハッとした僕と警備員は目が合った。僕は声を出して物語っていたのかもしれないと思った。急に恥ずかしさがこみ上げてきて赤面した。
「そう嘆くなって、いつまでもやつらの天下じゃないんだ」
「引き上げるとするか」
「あゝ」
 道路工夫は煙草を作業着のポケットに押し込んだ。節くれ立った指に太い金の指輪が嵌っているのが、いかにも下品であった。僕は自分のことではなかったので安心した。警備員と道路工夫は雨の中に消えていった。白状しよう、僕は失業してから妙な癖がついてしまったのだ。相手もいないのに勝手に話し出すのである。独り言の域は過ぎて、空疎な物語が突然に口から出てくるのだ。あるいは『明日になったら、貴様を殺しに行く』というセリフが自然に出てくる。言い放った瞬間、僕は正気に戻るのである。いったい誰を殺してやろうと思っているのか、見当がつかない。周りに人が居ないときに限って、口に出るから脳の安全弁はまだ働いているのだと思う。
 が、二日前のことだ、夕方、スーパーで精算をしている最中、ついに『明日になったら、貴様を殺しに行く』と口に出てしまったのだ。レジの中年女の牛乳を持った手が止まって、僕の顔をまじまじと見たのには驚いた。女は体裁を繕って「ええと、何か追加されるものがありますか」と問うた。幾分、笑みを含んだ口元に銀冠の列が見えたが、その卑猥さは僕の恥辱と十分釣り合うものであった。僕は赤面して幼子のように首を横に振った。精算が住むと、大急ぎで食品を袋に詰め込み、万引き犯のようにそそくさと店を後にした。
 帰り道、僕の頭は自分の仕出かした不手際でいっぱいだった。店内は混雑していたから、僕の独り言は聞き取れなかっただろう。それにまさか見知らぬ客が『明日になったら、貴様を殺しに行く』などと言うはずもないと思うから、女はたとえ聞いたにせよ自分の妄想に過ぎないと思うであろう。僕は自分に言い聞かせた。しかしその間中も僕の頬は火照っていた。僕は恐れた、堰を切ったように心の闇が外部に漏れることを。それはまるで裸体で街中に出るようなものだから。



私の夢十夜 第九回




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