香山 滋著・ゴジラ

「ゴジラ」・香山 滋著(奇想天外社版)

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 あらすじもなにも説明はいらないと思う。大怪獣ゴジラの小説版である。本書には「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」の二編を収める。どちらも映画化されている。映画を見てしまえば、あらためて小説を読む必要もないのであるが、読んでみた。対象は小学校高学年から中学生ぐらいまでか、紙芝居にあるような書き方である。映画のほうはだいぶ前に見たので、大まかなことはわかっているが、やっぱり小説とは違うような気がする。
私はSF小説が苦手である。というのは、想像力の欠如というべきか、文章からは対象物のなんであるかが理解できないことが多いからである。挿絵を入れてくれないとほんとうに困るのだ。山根博士によれば、およそ二百万年前、恐竜やプロントサウルスが全盛をきわめていた時代―ジュラ紀―から次の白亜紀にかけて生息した海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程にあった中間型の生物で、五十メートルぐらいの大きさだというけれども、これだけでは形として見えてこない。しかし、ゴジラの場合は、はじめから知っているから安心なものである。
ゴジラ映画はずいぶん作られたが、昭和29年公開の「ゴジラ」だけが見られるものだと思う。続編はもう唐突にライバル怪獣が出てきて、単なる怪獣プロレスのオンパレードである。第一作は日本で本格的特撮映画だということで作るほうは相当の気合が入っていたのは関係者の証言で知られている。ところが第一作の成功でビジネスに走ってしまった。映画の続編は難しい。怪獣プロレスになると、ゴジラ対人間の構図が無くなって、人間は観客の地位に落ちてしまう。そうすると、リアルな感情移入ができなくなってしまうのである。怪獣プロレスには、それなりのよさもあるかもしれないが、コブラとマングースの闘いを見るようなもので、迫ってくるものがないのだ。
第一作はモノクロで、東京を襲撃するのが夜間であった。ゴジラが着ぐるみであるのをカモフラージュするのによい考えだ。ついでに今日ではフイルムの劣化も手伝って、全体像がぼけているのが映画によい影響を与えている。あまり鮮明であると、作り物だというのが分かって興ざめになる。電車を咥えるシーンは、ゴジラの大きさ、力、強暴さ、冷酷さを表すのに十分であったが、だんだん人間の感情を持つようになって堕落した。
第一作では多少恋愛など、人間のドラマも組み込んであったように思う。どうもよくわからないのが平田昭彦演じる芹沢博士であった。風貌からして大学関係者には見えないし、自宅の地下に実験室を持っているのは不可解である。どうやって収入を得ているのかと思う。資産家の御曹司ということにすれば問題はないのだが、こういう人物はSF作品にはよくある。

第二作目の「ゴジラの逆襲」では場所は変わって大阪である。前作の続きかと思うと、今回のゴジラはもう一匹棲息していたという設定だ。ゴジラをもっとも知る山根博士は、大阪警視庁の会議場で係官に〈では次に、東京から飛行機でかけつけてくださいました山根博士に、ゴジラ対策のお話をお願いいたします〉と問われ、〈ただ今、ゴジラ対策の話を、といわれましたが、ゴジラを防ぐ方法は、残念ながら一つもありません〉と答えスクリーンから消えてしまう。大阪は大阪でやってくれ、と言わんばかりの冷たさである。ゴジラを倒す唯一の武器・オキシジェン・デストロイヤーは芹沢博士しか作れないし、芹沢博士亡き後ではどうにも手の施しようがないのは分かっているが、なんとも情けない。
そうこうしているうちにアンギラスも大阪へやってきて、怪獣プロレスが始まる。二匹の怪獣が大阪で出くわすのは、いかになんでも無茶苦茶である。「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」以降は別物と考えてよいだろう。「ゴジラの逆襲」の監督は本田猪四郎から小田基義に、音楽は伊福部昭から佐藤勝に変更されているから、やっぱり新生ゴジラの誕生なのだ。「ターミネーター」と「ターミネーター2」の関係と同じであると思えばよい。
私の好きな怪獣は、それはゴジラでもモスラでもラドンでもない、「キングコング対ゴジラ」にちょっとだけ出てきたオオダコである。あのヌメリと質感はどの怪獣よりもすばらしい出来だ。一部を本物のタコを使ったアイデアが生きている。残念ながら、キングコングに投げ飛ばされて、スゴスゴと海に帰ってしまった。あれも放射能で巨大化したのだろう。


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