「訪問者」

  「訪問者」





  目を覚ますと、秋の薄日が畳に射していた。私は二つ折りにした座布団を枕に、午睡を貪っていたのである。細目に開けた窓から冷たい空気が流れ込んでいる。時計は三時を指していた。赤茶けた畳に湯呑が転がって濃いしみを記している。束の間、忘れていたこと、つまり私は失業しているのだが、それが急速度で頭に蘇って、全身が鉛を詰めたリュックサックを背負っているような感覚に襲われた。今日始まったわけでないのだが、昨夜はこれからどうしようかと考えているうちに、悪鬼が頭を駆け巡って、私に眠るのを許さなかった。今朝はなんとか起きたものの、頭は薄ぼんやりして、遅い昼食後、ついに横になってしまったのだ。目を瞑っても、自然と『仕事は見つかるのか?』、『生活はどうする気だ?』、『資金はこの先、いつまで持つのか?』と自問自答して言い訳を拵える。そのうちに、疲れてとうとう眠ってしまった。『ええい、面倒だ、もう少し横になってやれ』と思った。
うとうとしているが、一度目が覚めてしまうと、もう駄目だ。私にお構いなく、頭の中で悪鬼が暴れまわっている。ふと天井の板に茶をこぼした様なしみを発見した。あれは前から有ったものだろうか。節目の渦がグルグル回る。もっと大きくなって自分を吸い込んでしまえ。グルグル、グルグル回るぞ、高速回転だ。そのとき、ガチャリとドアを開ける音がした。空疎な考えはちりぢりになって消えてしまった。『誰だ!』 私は気味が悪くなって身構えた。ドアが鈍い音をさせて閉まる。と同時に人の気配がする。軽い足音が近づいて、障子が開いた。若い女が立っている。紺のカーディガンにジンパンの軽装だ。敷居をまたいだ。
「まあ、どうなされたのよ」
 鈴を転がすような声で女は言った。しかし見開かれた目は、驚きを隠せなかった。私のそのときの恰好と言ったら、まるで強盗に鉢合わせしたみたいだったろう。向こうは私のことを知っているようだ。そしてよく来ているような素振りだ。私はこの女を知らない。
「おい、君。失敬じゃないか。いきなり上り込んで、ノックぐらいするものだ。それに君は誰なんだい」
 私は平静を装って、努めて冷静に言った。女は動じない。
「ほほほ……。誰って…、毎日来てるじゃありませんか。変な人ね」
「何を寝ぼけてるんだ! 毎日だって? 君なんか知るもんか。さあ、出て行きなさい」
「出て行けと言われてもねえ……、出て行く理由がありませんわ、ほほほ……。あなた、どうかしてるわ」
 『ははあ、なるほどね……』 私は女の正体が見えてきた。おそらく空き巣で、私が居たものだからキ印のふりをしているのだ。なるほど、うまい手を考えたものだ。
「さあ、帰りたまえ。君の目的はわかってる。僕は被害にあったわけじゃないからこのままにしよう。いいかい」
 女は眉を八時に寄せ、怪訝な顔をしている。
「さあ、早く出て行きなさい。どうしてもというなら警察を呼ぶよ」
 女は毅然として、
「お呼びなればいいわ」
 せっかく見逃してやろうと思ったのに、ずいぶん強情な奴だ。それに慣れている、ずいぶんと荒稼ぎをして来たに違いあるまい。こんな者に温情をかけては世のためにならないと思ったので、携帯電話を開いた。手首に冷たい感触がした。女が握ったのである。爪が肉に食い込んで痛い。
「ほほほ……、お巡りさんが来て不利なのはあなたなのよ。よくって」
「うるさい!」
 私は女の手を振りほどいて、畳に叩き付けた。しかし転がったのは女ではなくて、ラグビーボール状の黒い毛玉だった。一度、弾んで細目に開けてある窓から出て行ってしまった。植込みが揺れているから、そこを目がけて湯呑を投げたが遅かった。竹ぼうきでそこいらを突っついたがなにもなかった。あれはなんだったのだろう。こんな話は誰も信じないだろう。だからここに書いておくのである。さて、もう少し続きを書かねばならない。
 部屋に戻って、頭を掻き毟った。ずいぶんと長い間床屋に行っていないものだから、私の頭は昔の書生みたいになっていた。フケがぼろぼろ落ちる。こんな詰まらんことに拘泥してる暇はないのだ。ひと眠りしたら、床屋に行こうと決めていたのだ。

 床屋は空いていた。マスターは客間の椅子に足を投げ出して、スポーツ新聞を読んでいた。上目使いで私を認めた彼は、そそくさと立上って理容台に案内をした。エプロンを掛けながら慇懃に、
「どのようにしましょうか」と問うた。
「短くやってくれないか。あとは任せる」
 サクサク……と心地よい音がするたびに、エプロンに黒い塊が落ちた。それは雪崩のように布を滑って床に落ちて行く。私は女のことを考えていたが、しだいに眠くなってきた。莫迦らしくなって、ついに目を閉じてしまった。サクサクと切る音が子守唄のように聞こえる。嫌なことは忘れるに限ると思った。

 不意に右肩を軽く叩かれた。マスターが終わった合図をしたのだな、と思った。
「お客さん、お客さん……」
「いや、どうも」
「私ですよ、お目覚めになってくださいな」
 女の声に変わっている。それに聞き覚えのある声である。眠けは吹き飛んでしまった。まさかとは思ったが、鏡に映ってるのはさっきの女である。私の後ろで口辺に笑みを湛えている。私はどうかしているのだろうか、鏡に映ってる景色は床屋ではなくなっていた。岩だらけの荒野である。曇天で気味が悪い。それだけではない、私は理容台でなくて石に腰かけていた。正面の鏡は無くなっていた。振り返ると、女はいなくなって黒猫がいる。飯は上等の喰っているようだ、毛はビロードのようで艶がある。赤い首輪をしているから飼い猫なのだろう。妙なところに来てしまったものだ。
「お坊ちゃん、お坊ちゃん、私ですよ、覚えておりますか?」
どこからか女の声がする。しかし私と黒猫しかいない。
「君はどこに隠れているのだね。出てきて訳を説明したまえ」
 と問えば、
「お坊ちゃんの目の前におりますよ」
「猫しかいないよ」
「私はその猫ですよ。先程はたいへん無礼をしました。さぞやお怒りのここと存じますが、どうかお許しくださいませ」
「莫迦を言っちゃいけない。猫が話すものか」
「ほほほ……、信じられないのも無理はありませんね」
「では、二本脚で立って、三回廻ってごらん。できたら信じるとしよう」
 すると甘ったれた鳴き声を出して、立上った。首輪の先に銀の鈴が見える。招き猫のような格好になって三度回って、「これでよろしゅうございますか」と言い、前脚を地面に下した。こうなっては信じない訳にいかない。
「なぜ君は猫に化けているのだい?」
「人間に化けたのでございますよ。でも化けるのは苦しいのです。ですから猫のままでお話をしとうございます」
「君は以前から僕を知っているようだが?」
「ほほほ……、お坊ちゃんは忘れていましょうね、もう四十年も前になります、私はお坊ちゃんのお家におりました茉莉でございます」
 四十年前と言えば、私は小学校に上がっていない。H市の田舎で両親と暮らしていた。小学校五年生のとき、父の転勤でK市に移った。人づてに聞いたところでは、家は買い取った新しい住居人が 、まもなく壊して跡形もないということだ。区画整理も行われて、畑はまるで無くなって、住宅街になっているらしい。私は一度も訪れたことはない。記憶を手繰って行くと、黒猫を飼っていたのを思い出した。名前は忘れてしまったが、茉莉と言ったのだろうか。黒猫は小学校に上がる前に死んだ。みかん箱に入れて、裏庭の百日紅の近くに埋めた。しばらくは皆で線香や供え物をしたが、そのうち草に埋もれて忘れてしまった。今ではどこに埋めたのか、分からなくなっていることだろう。
「では、あのときの……」
「そうでございますよ、お坊ちゃんにかわいがっていただいた茉莉でございますよ。思い出していただいて、うれしゅうございます。白身のお魚やお味噌汁、それからビスケットなどもお坊ちゃんに分けていただきまして、幸せな毎日でした。散歩にもお供させていただきました。憎らしい犬に苛められたときは抱いてくださいました。御恩は決してわすれません。幸せな日々は瞬く間に過ぎました。四十年前の今日のことでございます、朝からなんとなく体が重くて、おざぶで臥せっておりました。突然、苦い水がこみ上げてきて、辺り一面が真っ白になってしまいました。その時の苦しさと言ったら、例えようもありませんでした。脚がぴくぴく動き出しまして、だんだんと分からなくなっていきました。もう駄目だというのを理解しました。そのうち真っ暗になって、とうとう……」
「そして裏庭に…」
「さようでございます。こんな畜生に立派な塔婆まで立てていただいて、涙があふれました。今日は私が死んでから四十年目、どうしてもお坊ちゃんに会いたくて出て参ったという次第です」
「そうかい、でもなぜおかしな態度をしたのかねえ」
「畜生のことと思って、憐れんでくださいまし。あまりのうれしさに意地の悪い性質が出てしまったのですよ」
「そうかい。僕も懐かしい気持ちになってきたよ。昔みたいに僕の家へ来ないかい」
「茉莉は幸せ者でございます。お坊ちゃまの傍にいられたら、どんなにうれしいことでございましょう。悲しゅうございますが、一つ所に住まうことはできないのです」
「どういう訳で?」
「天の掟でございます。私ども畜生は、どんなに主に愛されていても死んだなら、その人の元に行ってはならないことになっているのです。掟を破れば、罰は人のほうに下るのでございます。こうやってお坊ちゃんと会っているのも、いつ天に見つかるかとはらはらしております。お話したいことは山ほどありますが、これでお暇させていただきます。もう会えますまい。心残りではありますが、お坊ちゃん、どうかお元気で……。茉莉はいつでもお坊ちゃんのお味方でございます。それでは……」
黒猫は頭を垂れて、前足を出した。三歩遠ざかったところで、
「ちょっと待ちなさい。どうやらお前の話したのは嘘ではないようだ。お前の墓は無くなって、水の一杯も上げることができない。供養にできることがあればしたいと思う。言ってごらん」
 こちらに振り向いてすすり上げるあげる仕草をした。
「もったいないお言葉でございます。生前かわいがっていただいて、今日また会えてそれで十分でございます」
「そう言わずとも、遠慮なく言ってごらん」
 しばし間を置いて、
「それではお言葉に甘えまして、お揚げを三枚ほどいただきとうございます。今夜、門のところに置いておいてくださいまし」
「それだけで?」
「結構でございます」
「わかった。そのようにしよう」
「茉莉は幸せ者でございます。では……」
 茉莉は遠のいて行く。その後ろ姿がなんだか気の毒で、
「茉莉、茉莉……」
 と叫んだが今度は無駄だった。私は茉莉を追って岩肌を駆けたが、躓いてしまった。「あっ!」と声を出した。同時に頭上からも「あっ!」という野太い声がした。
「危ないなあ。剃刀を当てているんだから動かないで下さいよ。喉笛を切っちまいそうだったよ」

 なんだか清々しい。頭を刈ったせいばかりじゃない、懐かしい思い出が私の殺伐たる心に潤いをもたらしたからである。陽が沈むまであと少しだ。上等のお揚げを三枚買って、夜、門の前に置いた。翌朝、皿は空になっていた。




私の夢十夜 第十回





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