「不 安」

 




 不 安


 八畳のキッチンでテーブルを中にして、須佐彦と日美子は向かい合って腰かけている。湯を注いだばかりのインスタント・コーヒーはまだ渦を巻いている。須佐彦は新聞の見出しに何か面白い記事はないかと物色中である。日美子はスーパーの広告にせっせとマジックで印をつけている。二人は無言である。一歳になる光はまだ寝ている。テレビは付けてあるが、時間を見るだけなので音はしない。須佐彦がコーヒーを啜ると、日美子もカップに手が伸びた。
 ここ数年の朝はいつもこうである。
 レンジがチンと鳴って静寂を破った。日美子は二枚のトーストにバターを塗って皿に載せ、テーブルの中央に置いた。二人の朝食はトーストとコーヒーの簡単なものである。須佐彦がトーストを齧っていると、不意に日美子が蜜柑を差し出した。手首の静脈が皮膚を透けて見えている。
「ほら、これ見て」
「蜜柑がどうかしたの?」
 日美子は笑うのを堪えている。
「よく見てよ」
 何も変わったところのない蜜柑である。須佐彦は日美子の言うことが分からなかった。
「へそのところがポチとなってるでしょう。これって雄なんですって」
 偶に見ることはあるが、須佐彦は考えも及ばなかった。
「なるほどねえ、凹んでるのは雌というわけか」
 日美子は俯いてクッククと声を出した。
「君が考えたの?」
「それがさあ、昨日光の乳幼児健診が文化会館であったでしょう、ちょうど山村さんがいてね、待ってる間にバッグから蜜柑を出したのよ。そうしたら二個ともね、ポチがあって、『あらいやだ、男の子ですわ』って言うのよ、わたしは意味が分からないから聞いたら……クックク……」
「山村さんって、先週の日曜日にスーパーで会った人?」
 日美子は首を縦に動かした。
「楚々として、そんな冗談を言うようには見えないがなあ」
「それがぜんぜん。あの人、子供三人いるのよ。それでわたし、お礼にあなたに教えてもらった雪山で遭難して、死んだカップルの話を教えてあげたの」
「男は、死体で、女は遺体で発見された」
「クックク……。山村さんたら真っ赤になってさ。だってすぐに意味が分かるのって相当なもんじゃない? 今日、保育園でお披露目するわよ、あの人。ほら、あなたには女の子をあげるわ」
 そう言って日美子は蜜柑を転がして寄こした。そのとき玄関で電話のベル音が聞こえた。二人は息を呑んだ。お互いに、身内に突然の不幸が襲ったのではと思ったからである。
 日美子は途中まで剥いた蜜柑をテーブルに置いてキッチンを出て行った。受話器を取る音がしたが、十秒も経たないうちに置いたので須佐彦は安心した。
「いきなり、『清美か』よ」
「清美だって言ってやればよかったじゃないか」
「咄嗟にそこまで気が廻らないわよ」
 道路に冬の薄日が射している。前方にラグビーボール状のヘルメット、体に張り付くナイロン・ウエアの若い男が、道の中央よりやや左側で自転車を漕いでいる。上半身に比べ、足がいかにも貧弱なのが卑猥である。昼寝を邪魔する蠅のように、車が追い越すのを拒んだ。時おり男は後ろを偵察するが、車を揶揄しているようだ。次の信号まで須佐彦の車が先頭で、遥か先に軽トラックが見える。須佐彦の後に大小さまざま車が連なっている。須佐彦はため息をもらした。
「よく怖くないものだあ。轢き殺されるのを考えないのだろうか」
「考えないのよ。轢いちゃおうか」
 日美子はアクセルを踏み込む仕草をした。
「無理するなよ」
「臆病ね、やらないわよ」
 家から駅まで歩けば三十分、バスもあるが時間通りに来ることはなく、決まって五分前後するので、須佐彦の出勤は日美子の運転で、毎日駅まで送ることになっている。
 須佐彦は腕を組み、眼を瞑って、今日の会議のことを考えた。須佐彦ら選ばれた三人の社員は、それぞれ『本年度の乾物売上倍増計画案』をレポートにまとめ、老臣達の前で発表することになっている。社内の誰もが腹を抱えて笑うような無謀な計画である。特需が舞い込んで来なければ、微増はおろか、横ばいがせいぜいであるのは皆が知っている。それにも関わらず、こんなテーマを立てたのは、老臣達が自らの存在理由を社内外に示すためであった。計画が実行されるかは問題ではなかった。とにかく会社の為に働いているという証明が必要なのだ。アリバイを探すより労力がいる仕事である。
 かって、第一線で巧名を挙げた老臣の一人は、今では首と顎の区別がなくなり、腹は蛙のように膨らみ、幸福と言う名の化け物に成り下がっていた。別の一人は顔がサラダオイルを塗ったみたいにテラテラと不気味な光沢を放っていた。肉が削げ落ちて骨格標本にちょうど良い老臣もいた。そのどれもが腐敗した息を吐いて、須佐彦らのレポートをもっともらしく聞き、猜疑心に富んだ目が資料を追うだろう。すべては茶番である。だから彼らの自尊心が満足されるためにも、最上の演技をしなければならなかった。須佐彦は老臣の不興を買わななければ、それでよいと思った。
「余興には男は死体で、女は遺体」
「えっ、何か言った?」
「いや……」
「独り言、言うようになると、危ないんだって」
 後ろから二両目の定位置の先頭に須佐彦は立っている。コンクリートの冷たさが靴を伝わって来た。エスカレーターに乗っているときに急行は大量の雑踏を吸い込んで行ってしまった。次の急行で楽に坐れ、飛び込み自殺でもなければ、就業三十分前には着く。
 須佐彦の隣は五十恰好の男が、鞄を地面に置いて少年誌に夢中である。神経質な須佐彦は地面に物を置くことは出来なかった。須佐彦はこういう中年男の無頓着さが嫌いであった。エスカレーターに乗っているとき、リュックを背負った学生風の男が、脇の階段を二段ずつ登って行った。須佐彦はホームの階段を降りるとき、男が急行に滑り込むのを見た。『俺も最近まで階段を使っていたのだがなあ、いつから年寄り臭くなったのだろう』 自分も腐敗しつつあるゆで卵だと思うと、若さが妬ましく思えた。
 須佐彦は鞄から書類を途中まで出して、またしまい込んだ。十時から始まる会議の予習をしようと思ったからであるが、気がかりなこと、それはまったく莫迦らしいほどの些事であるが、骨董屋が掛け軸のわずかなシミに拘泥するのと同じように、須佐彦の頭に拡がって来たからである。
 靴をはいているときである、玄関の左側に掛けてあるモナリザの複製画が、心持右に傾いているのが目に入った。気にはなったけれども、日美子がエンジンを吹かしていたので、直さないで出てきたのである。おそらく日美子は知っても直さないだろう。日美子は家事に疎く、流しは漂白剤に漬けた食器が午後まで占領していた。
 須佐彦はこの複製画が嫌いだった。
 今の家に越してきたのは三年前である。光は生まれてなかった。駅から遠いので出かけるのに不便であったが、日当たりはよく、六畳程度の庭もあって、なによりも家賃が安いので借りたのである。壁紙は家主が白いものに張り替えてくれたが、玄関から入って右手の壁に、縦長で三十センチほどの油染みがあった。
 市民公園で月一回行われるフリー・マーケットに日美子と出かけたときに、ある出店の敷物の上に、がらくたに交ってモナリザが置かれているのを、須佐彦が見つけた。木彫りの額縁は金色に彩色されていた。日美子が油染みの隠しに丁度よいと言うので拾って来た。二人とも芸術に関心は薄かった。
 壁に吊るすと、モナリザの笑みが狭い玄関を威圧した。日美子もそう感じてるようだったが、自分が決めた手前、「そのうち慣れるよ」と言った。
 しかし須佐彦は一向に慣れないで今日まで来た。見る度に冷笑されているように思った。理由は分らないが、とにかく気に喰わない奴は居るのもので、それと同じように、この絵に一方的な憎しみを感じていたのである。昨日は曲がっていたかしらと考えたが、分からなかった。別々の事象を関連付けて、意味付けすることから信仰や迷信が生まれるのである。須佐彦は非論理的なものに拘泥するのは幼稚な考えだと思っている。頭を悩ます絵が我慢出来なくなった。不格好だからという理由を付けて、帰ったら外すことにした。日美子も反対しないだろう。
「俺は疲れているんだ」
 少年誌を読み耽っている中年男が、わずかに首を向けたが、すぐ視線は紙面に戻った。日美子の『独り言、言うようになると、危ないんだって』が耳に蘇った。須佐彦は本当に危なくなっているのかもしれないと思った。
 ホームは雑踏の賑わいを回復した。須佐彦の後ろで中学生二人がじゃれ合っていた。鎖を放された犬が二匹いるようで落ち着かなかった。急行がホームに滑り込んできた。須佐彦が今朝、珍しく日美子の上機嫌であったのはなぜだろうという問いが頭を過ったとき、背中をドンと押され、鞄を落した。影は白線の外側で泳いで、見えない蜘蛛の糸に縋り付こうと懸命になった。その格好に驚いた急行は車輪に火花を散らし、甲高い悲鳴を上げた。その間にも影は線路に躍り出て万歳の格好をした。
 日美子は渋滞に挟まれて、まだ家に着いていない。光はむずがって泣いている。
 二人が出て、すぐのことである。紐のかけてある鋲が緩んで、額が落下した。下側の縁は破損し、辺り一面にガラスが散って、冬の薄日を反射させた。モナリザは何もなかったように、天井を見、冷笑していた。


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