「甲 虫」 (2)

 




甲 虫

(二)

 若葉の間から見える空は遠くまで澄んでいて、夏が近いのを示している。並木道の反対側から授業を終えた女子学生二人が、屈託のない笑い声を上げてすれ違った。血色好い歯茎は、いかにも若さを見せびらかしているようだった。朝のうちは上着を羽織って丁度よい温度であったが、やや上がり勾配の道を歩くと、汗ばむほどの陽気になった。
 校門の脇にある警備員詰所でアラン・ニコルズ博士の研究室を尋ねた。博士の研究室は正面の本館から数えて四棟目の三階にあると言った。学生に交じって、パジャマ姿で散歩する中年男や、看護婦に車椅子を押してもらっている少女、頭部に包帯を巻いている若い男の顔は日焼けして、肉体労働者だろうと思われる立派な体格を持て余してパイプ椅子に腰かけ、漫画本に夢中である。ここが大学病院であるのを、嫌でも意識せざるをえない光景に満ちていた。正面入り口から出で来た若い婦人は新生児をケットに包んで、その夫と思われる男と、見送りの看護婦に深々と頭を下げ車に乗り込んだ。 
 研究棟は静まって、冷やりとした空気が満ちていた。ゴシック風の階段の手すりは、この建物が古い年代に建てられたことと、医学部の権威を象徴していた。
 厚い木製のドアは時代の垢がしみ込んで黒ずみ、金メッキのドアノブは所々が剥げていた。ボタンを押すと、向こう側からスリッパの音が聞こえた。それほど構内は静かであった。稍あってドアが開いた。出て来たのは長髪の若い男である。来意を告げると、一度奥に戻ってから再びドアを開け、招じ入れた。ニコルズ博士と、その弟子であろうと思われる若い男二人が椅子を丸く囲んでいた。博士はクリステルを認めると立上って、長髪の男が座っていただろう椅子を手招きで勧めた。三人の男は博士とクリステルに目礼して研究室を出て行った。後ろでドアの閉まる鈍い音がした。二人は久闊の挨拶を交わした。
「ご勉強中でしたのでしょう。お邪魔だったかしら?」
「いやいや、お構いなく。それよりスミス君が虫に怯えているという電話でしたが、もう少し詳しく伺わせてください」
 博士は医者らしい鷹揚さで話した。
 アラン・ニコルズ博士はスミス氏とは別の公立大学医学部で准教授をしている。スミス氏が講師として招聘されたのは、ニコルズ博士が高校のサッカー部での先輩であり、知己であったからである。博士は専門が基礎医学であるが、こういうときに頼りなるのは同国の人である。スミス夫人は、癖である左手の中指にある指輪を回しながら話した。
 一カ月前から夫は宙を何かがあるような感じで見るようになった。夫人は目の疲れで、そうしているものと思ったが、頻繁になるので気味が悪くなった。そこで目に異常があるのかと尋ねたが、なんともないと言う。それより、『おまえ、近頃虫が多いいじゃないか。気にならんのかね』 と妙な事を言う。夫人は虫と言うから、ゴキブリのことかと思って、『もう、出ましたの。私はまだ見てませんわ。燻蒸しなくちゃいけないわね』 と言った。すると、『そうじゃない。ほら、あの壁を見てごらん』と指で示した。夫人は、その方向を目で追ったが、虫らしいものは無かった。『なにもないじゃない』 『お前には見えないのかい、二匹の黒い甲虫がもぞもぞ壁を這っているじゃないか?』 夫人は目を凝らして壁を見たが、やっぱりなにも無かった。きっと講義や論文のことで疲れているのだろうと、そのときは思って、そのままになった。
 が、夫はしだいに異常な行動をするようになった。突然、入れたばかりのコーヒーを虫が入っているからと言って捨てたり、壁やソファー、その他家具に付いている何かを摘まむ仕草を仕出すようになった。目はしょっちゅう部屋の隅々まで点検しているような具合になった。ここに来て、夫人は疲れのせいばかりではないと思い至った。
 ある夕飯前、キッチンのテーブルに腰かけた夫は、しきりに例の虫を頭から摘まむ仕草をして、ナプキンの上に捕えたそれを並べて、ほくそ笑んでいた。夫人は夫に狂気を見出して、『ねえ、もう止めて! 虫なんかいないわよ』 と言えば、『虫がいないだって? おい、おまえはいつから鈍感な女になったんだ。そこらじゅうにいるじゃないか。そこにも、ここにも! 俺は今日まで我慢して来たんだ。いつか、クリステル、おまえも虫退治を手伝ってくれるかと思ってね。こんな虫だらけのキッチンで飯が食えるわけがないだろう。いい加減にしてくれ!』 と怒鳴って書斎に閉じこもってしまった。スミス氏が夫人に罵声を浴びせたのは、これが初めてである。
 しかし、夫人にはまったく理解しがたい行動である。この日を境に、スミス氏は異常性を加速させた。大学から帰ると、着ているものは下着からすべて取り換えた。窓はガムテープで目張りを施した。家にある穴はシンクとバスルームの排水溝を除いて塞いでしまった。スミス氏は夫人が外から戻ったときは、玄関前で殺虫スプレーを衣類やバックにかけてからにし、入ってからはスミス氏同様、すべての衣類を取り換えるよう命じた。スミス氏の顔には以前は無かった陰険なしわが刻まれ、目は煌々と輝き、夜、羊を襲う狼のようになった。またどうかすると、がくりと肩を落とし、悄然として書斎の椅子に腰かけていることがある。目は正気を失い、やつれた顔の深いしわが痛々しかった。その姿は七十を超した老人のようである。夫人はスミス氏が正体のわからない化け物、彼こそが甲虫になってしまったような気がした。
 腕を組んで夫人の話を聞いた博士は、一つの推論が出来た。しかし、いくら旧知の仲であっても、それを言うのは夫人の不安を煽ることになるし、患者を診ないで病名を言うのは医者として軽率の誹りを免れないと思い止めた。
「そうですか、わかりました。では一度、スミス君をこちらに来るように言ってください。彼は納得しないでしょうがね。そこをなんとか、うまくやってください。変わったことがあれば、すぐに連絡を入れてください」
夫人はニコルズ博士の素っ気ない言葉に憮然とした。もう少し何とか知恵を貸しくれても、よいだろうと思った。それは博士の医師としての立場を理解できないからだった。夫人は博士に相談に来たのが無駄に思えた。軽く会釈して立上ったとき、博士は、
「待ちなさい」
 と言って、夫人が去るのを右手で制止した。白衣の袖口がひどく汚れていた。博士は引き出しから一シートの白い錠剤を取り出して、夫人に渡した。
「それは睡眠薬です。どうしてもという時に二錠だけ飲ませてください」
 夫人は博士に礼を言った。
「こういう形で薬を出すのは、日本では禁止されているのですが」
 と言い添えて、ドア口まで夫人を見送った。
 夫はもう大学が引けて帰っているだろう。途中どこかによるなどいうのは考えられない。伝書鳩のように大学に行っては、戻ってくるのが常で、残りの時間は書斎で論文を書くか、読書をして過ごす。ショピングに行くと言って出て来たが、今頃、どう思っているのだろう。悪い考えに耽っているかもしれないと思うと、ぞっとした。どうか大人しくしていればよいがと願った。家に帰るのに足取りは重かった。太陽は傾いて影は長くなった。並木道を抜けると、けたたましい救急車のサイレンが近づいてきた。いつか、夫もあの車に押し込められるのではないかと予感がした。
 時計の針は四時を指していた。夫人は玄関に着くと、中は異常事態になっているのを悟った。悪い予感が当たってしまった。何か、物を投げ飛ばしているような音が聞こえる。刃物でも振り回していたらと考えたが、躊躇していられなかった。ドアには錠が掛かっていなかった。用心深い夫にしては珍しい。自分が帰ってくるので開けておいてくれたのだろうか。一歩玄関に入ると、家具を動かしているような鈍い音がした。それよりも、ツンと来る大量の殺虫剤の匂いに驚いた。瞬間、夫人は夫が自殺したのではないかと思って、書斎に向かった。入り口は開け放たれていた。
 キャビネットは壁から離され、スタンドや書類、本が床に散乱していた。グリーンの絨緞は水滴を降らしたような形で、とろどころ丸く色が抜け落ちている。夫人は部屋の隅に三本のスプレー缶とバケツを発見した。バケツの中を見ると、少量の液体が有って漂白剤の匂いがする。スミス氏はベッドから転げ落ちたのであろう、シーツをつかんだまま床にうつ伏せになっていた。夫人は状況から、夫が何をしていたのかを理解した。ほんのわずか書斎に居ただけで、殺虫剤のガスと漂白剤の混じった酷い臭気で涙が出で来た。スミス氏を揺り起した。薄眼を開けて夫人を認めると、さも満足そうに、
「バケツを見ろ、山盛りになってるだろう」
 と言っただけで、再び目を閉じた。夫をなんとかしなければならないと思ったが、その前に空気を入れ替えるのが先である。窓はスミス氏の几帳面さで、じつにしっかりとガムテープで目張りが施されていた。
 スミス氏は首筋にかゆみを感じた。もぞもぞという感じは甲虫の仕業である。忌々しい奴と思って払いのけて、ベッドから上体を起こし、正面の壁にある時計を見ると三時を回っていた。だが、時計のガラスや壁に黴のようなしみが点々とあった。まさかと思って見ると甲虫であった。これまでもずいぶんといたけれども、陽気のせいで大量発生したのだろうか、部屋を点検するとベッドや絨緞、天井のあらゆるところが、黒々とした点になっている。キャビネットや机の後ろを覗くとびっしりと甲虫がたむろしているではないか!


                                                                 ⑤―②

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この記事へのコメント

2013年06月11日 21:46
ファティマ第三の預言とノアの大洪水について。
ブログを見てもらえるとうれしいです。
h ttp://ameblo.jp/haru144


第二次大戦前にヨーロッパでオーロラが見られたように、
アメリカでオーロラが見られました。
ダニエル書を合算し、
未来に起こることを書き記しました。
エルサレムを基準にしています。


2018年 5月14日(月) 新世界
2018年 3月30日(金) ノアの大洪水

この期間に第三次世界大戦が起きています。

2014年 9月17日(水) 荒らすべき憎むべきものが
聖なる場所に立って神だと宣言する

2014年 9月10日(水) メシア断たれる

この期間に世界恐慌が起きています。

2013年 7月3日(水)メシヤなるひとりの君(天皇陛下)
御国の福音が宣べ伝えられる

2013年 5月15日(水) エルサレムを建て直せという命令が・・・


天におられるわれらの父とキリスト、
死者復活と永遠のいのちを確信させるものです。

全てあらかじめ記されているものです。
これを、福音を信じる全ての方、
救いを待ち望む全ての方に述べ伝えてください。

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