「甲 虫」 (3)






 甲 虫

(三)

 こんなに早く呼び出されるとは思わなかった。昨日は夫人に会った直後に、スミス氏の急変を聞いて駆けつけた。幸いガス中毒ではなくて、心労による疲れから倒れたのであった。それにしても、ニコルズ博士は自分が思っていたよりも、スミス氏の病気が進んでいることに驚いた。夫人に案内されて、スミス氏の書斎に入った。
 部屋はまだ片付いていなかったが、スミス氏はベッドに腰かけて書類の整理をしていた。その姿の案外としっかりしているのを見て博士は安心した。
「やあ、スミス君、気分はどうかね」
 書類から目を上げたスミス氏は、
「これはニコルズ博士、昨日はご迷惑おかけしました。おかげで今日はぴんぴんですよ」
「しかし無理をしちゃ駄目だ。しばらく大学は休みたまえ」
「今日は休講願いを出しましたが、これしきのことでくたばる私ではありませんよ」
「私はねえ、医師として言っているのだよ。わかるね、スミス君」
「そうよ、ねえ、ロバート……。博士の言うとおりにしてちょうだい」
 と夫人は祈るように言った。
「わかっているよ、クリステル。ニコルズ博士、こんなに早くから私のためにお出でくださいまして、ありがとうございます。脳の病気の疑いがあるから、精密検査を受けろということでしょう」
「やっぱり君は調べたのだね。その通りだよ、スミス君。脳の断層撮影と念のために眼科の検診をしてもらいたい。私のほうから手続きはしよう。いいね」
 スミス氏は承諾した。が、病気と言うことになれば、学者としての生命は失ってしまうのだろうか、これまでの人生はいったいなんだったのだろうか、そう思うと自然と涙が溢れてきた。博士は「スミス君……」と言って止めた。『今日は虫がいるかね』と言おうとしたからである。
 検診は三日後に行われた。夫人の運転で行ったが、正面のウィンドウに二匹の甲虫がしがみついていた。さすがに車の中までは侵入していなかった。この分なら、ここで寝起きするべきかもしれないと思った。正直な気持ちは検診をしたくはなかった。あれがニコルズ博士でなかったら毒づいて追い返してしまっただろうと思った。病院についたころには、二匹の甲虫はいなかった。風で飛ばされてしまったのだろう。病院はどこでも、アルコールの匂いがする。それだけで来るべきところではないと思った。
 試験の結果待ちは空白の日々である。はっきりと不合格の出来なら諦めもつくが、それでも奇跡を信じない者はいない。合格であろうと確信できても、解答の記入が一段ずつずれていやしなかったかと杞憂される。ましてボーダー・ライン上に入る者はもやもやした気持ちを抑えがたい。じっとしていれない。が、何かをするという気持ちにもなれないでいる。スミス氏もご多分に漏れず、一週間を不安定な気持ちで過ごしたのである。自分は病気でもなんでもないという楽観のあとには、必ず手遅れになっているという悲痛な気持ちに襲われた。検診の翌日から不安を忘れるため、家中の大掃除に励んだ甲斐があって、虫はめっきりと減った。大学は三か月の休暇願を出した。スミス氏の穴埋めはブライアン・マードック氏が代講することになった。日本人の教員ならまだしも、同国のライヴァルが自分の代わりに教壇に立つのは、面白くなかった。『マードックは学生に媚びて、理解ある教員面をするのだろうよ。そして、俺を追い出す気なんだ!』 大学のことを考えると、マードックへの憎しみが、彼の精神を不安定にさせた。いらいらして頭を掻き毟ると、一匹の甲虫が出て来た。押し潰すとソースのような茶色の汁が口から出て嫌な感じがした。 
 審判の下る日が来た。並木道手前の駐車場で降りた。先週は新芽の柔らかな緑色だった木の葉は、すっかり濃い緑になって厚みを増していた。スミス氏は、木を揺すったら甲虫が霰のように降ってくるのではないかと思った。そうでなくとも、葉から滑り落ちる甲虫がいるかもしれないと用心して道の中央を、下を向いて歩いた。うっかり甲虫を発見した日には歩けたものではない。行き交う学生の一人として、猫背で弱々しく歩いているスミス氏を英文学者だと思うものはいないだろう。この大学の購買部にも、スミス氏がアルバイトで翻訳した小説が置かれていた。
 秘書に案内されて研究室に入ると、ニコルズ博士はもったいぶって、封筒から書類を取り出して、ページをめくった。スミス氏はまな板の鯉でどうにでもなれと思った。夫人はニコルズ博士を直視して、審判を待ち受けた。博士は口を開いて、医者特有の重々しさを持って話した。その間も目は書類を追っていた。
「検診の結果によると、脳の断層撮影のほうは異常が認められないねえ。至って健全だよ。それと目のほうだが、右目に軽い乱視があるだけだ」
 ニコルズ博士は、神妙な顔の婦人の口辺に笑みが現れたのを見逃さなかったが、肝心のスミス氏は結果に不満足のようである。それというのも、この一週間考えた末、自分はどうか病気であってほしいと思ったからである。病気と言うことになれば、あとは治療に専念すればよい。大学は辞めることになっても、どうにかやって行けるだろう。最悪の場合は本国に帰ればいいじゃないかと考えていた。
「よかったじゃない、ねえ、ロバート。虫なんかいなかったのよ。幻覚を見ていたにすぎないのよ。先生、そうでしょう?」
 夫人は癌の疑いが晴れた陽気さで言った。スミス氏は夫人の言葉に構わず、
「では博士、私は精神病ということでしょうか? 毎日、他人には見えない虫と格闘して神経をすり減らし、やがては本当の狂人になって、精神病院の檻で生涯を送る。そういうことで理解してよいのですね」
「ロバート! 何ていうことを言うの、先生はね」
 スミス氏は夫人の言葉を遮って、
「どうなんです、博士、見解を聞かせてください。私も学者の端くれだ、真理を求めます。どんな結論だろうと恐れません。何も知らないで、自分という存在が無くなって行くのは我慢ができないのです」 
 実際、博士は困った。こう患者に迫られて来ると、本当の事、つまり精神科医の診断を受けるべきと宣告するのがよいのか、それとも曖昧にしておくのが得策なのか、長らく顕微鏡相手の博士は人間の心理を読むのが難しかった。臨床医なら、さっさと機械的に告げてしまうかもしれない。沈黙はスミス氏の言葉を肯定させるだけである。
「そう結論を急いでもねえ、とにかく君は脳に病気はなかったわけだ。しばらく経過観察ということにしてもらおう。今、精神病の結論を出すのは時期尚早だよ。少し落ち着いて考えてみよう。いいね」
 ここまで、博士はまったく詰まることなく、スラスラと口から出て来たのは自分でも上出来だと思った。
「少し、あなた、疲れているのよ。それだけなのよ。ねえ、ロバート、心配しなくても大丈夫よ。先生も病気じゃないって言っているのだから」
「病気じゃないって? それではお前に聞くが、そこに転がっているペンにしがみついている虫はどう説明するんだ。俺の指差すほうを見ろ。お前に見えるのか。クリステル、どうなんだ。博士には見えますか? ねえ、いるでしょう」
 博士はやっぱり宣告すべきだったかと思った。しかし、いずれにしてもスミス氏のような人間は言質を捕えて絡んでくるだろう。ここは医師の威厳で切り抜けるしかないと思った。
「ちょっと待ちなさい。はっきり言おう、私も奥さんも虫は見えないよ。しかし君には見えるのだから確かに虫はいるのだ。経過観察と言うのはね、お互いに歩み寄って考えるってことも含んでいるんだよ。だから時間が必要なんだ。君の言葉を疑っているわけじゃない、わかってくれたまえ、スミス君」
 スミス氏は抗弁しても無駄だと思った。二人とも自分を狂人扱いにしている。何か、とんでもないことをやらかすと思って、慰めを言ってくれるのだろうか。自分は虫が見えるのを除けば、まったく正常そのものだ。
 虫が見えないだと、よく言えたものだ、この狂人どもめ。待てよ、俺だけが正常で周りが狂人っていうのもあるぞ。今に見ていろよ、お前らの化けの皮を剥がしてやるからな。こっちにも考えは有るのだ。クリステルのやつ、博士とぐるになって俺を精神病院に押し込むつもりらしいな。愁傷な面をして俺を罠に掛けようっていうんだろう、その手に乗る俺じゃない。俺にしか虫が見えないって分かったのはクリステルと喧嘩したときだった。なぜか、衝撃がなかったのを覚えている。俺は今日と云う日を予感していたのだ。そうと決まったら、こっちもせいぜい芝居してやるだけだ。底意地の悪い考えがムクムクと湧き上がって来たが、止めようがなかった。苦痛の共有が出来ないことへの仕返しだった。二週間に一度、博士に様態を報告することで話は決まった。それはクリステルがやればよい。どうせ俺の報告は狂人の戯言だと思って聞き流すに決まっている。不愉快になるために来たようなものだ。一刻も早く立ち去るべきだ。さもないと、博士の弟子が俺を取り囲んで、アルコール漬けの標本にするだろう。『こんなところに虫がいるぞ』ポケットに入りこもうとしているのを床に叩き付けた。


                                                                 ⑤―③

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