「甲 虫」 (4)






 甲 虫

(四)

 翌日からスミス氏は入浴とトイレ以外は、書斎に閉じこもった。甲虫の侵入経路は絶たれ、これほど安全な場所はなかったからである。食事は夫人が運んだ。偶には夫人も相伴するが、大抵は一人で済ました。起きている時間は小説の英訳に費やした。それが飽きると、広口瓶に漂白剤を入れて家中の虫を捕まえては、落として殺した。瓶に虫が溜まって行くのが心地よかった。『クリステルのやつ、俺が存在しない虫を取っているのを滑稽に思っているのだろう。博士になんとでも報告するがいい』。
 自然、外部との交通は途絶えた。こういう生活が精神に悪い影響を及ばさないはずがなかった。暑い盛りで室内はクーラーの回転音だけが聞こえる。スミス氏は音に敏感になった。殊に電話の呼び出し音を憎んだ。プライベートの中に無断で侵入してくる他人の厚かましさは、甲虫と同じで、スミス氏の神経を昂ぶらせずに置かなかった。あるとき、マードック氏から見舞いの電話が来たときは、たいそうな嫌味を言った。隠れて聞いていた夫人は、その品のなさに驚いて、ほんとうに狂人になってしまったのではないかと、思ったほどである。夫人に来る電話にスミス氏は耳を澄まして聞いた。そして、すべてが自分の悪口に聞こえた。電話が終わると、すぐに誰から、何の用件で来たのか、しつこく尋ねた。夫人は自分の携帯電話は、家の中で使えないように電源は切ってしまった。夫人のちょっとしたことがスミス氏の神経に障って口論は毎度のことになった。
 スミス氏の年齢では、翻訳と虫取りだけでは時間が余って、暇ができると悪い妄想に耽った。もしかしたら、自分の見ている世界が本物であって、周りの人間が見ている世界は架空のものではないかと疑った。狂人が大多数を占めた場合、少数派は例え正常であっても狂人扱いにされる。正義はいつも多数の側にあるのだ。甲虫を手のひらに転がしながら思った。このコロッとした感覚、歩く時のくすぐったい感触は断じて偽物ではない。世界は甲虫だらけなのだ。こんな状態を放っておいたら、近いうちに人類は滅亡するだろう。いや、甲虫と闘うよりも金儲けのほうが楽しいから、見えているのに見えないふりをしているうちに、本当に見えなくなってしまったのかもしれない。いずれにしても愚かな奴ばかりで話にならない。自分だけが悩むのは莫迦々々しいが、性分だから仕方がないのだ。そう思うと、今度は発狂してしまうのではないかという恐怖が襲って来た。なにか、とんでもない犯罪をするような気がした。
 ある夕暮れ時に、甲虫を手の上で転がし無聊を慰めていたが、なんという名前の虫なのか、調べてみようと思った。スミス氏は夫人に命じて三冊の昆虫図鑑を取り寄せ調べたが、該当する甲虫は発見できなかった。甲虫の黒色は多いけれども、どこか金属的な光沢がある。スミス氏の甲虫は漆黒で光沢は毫もなく、関節を拡げると白い肉がわずかばかり見えるだけなのだ。腹を上にしてピンで止めると、刺の生えた足を盛んに動かした。ルーペで見ると気持ちの悪さにぞっとした。とにかく家の中にだけは、甲虫を侵入させてはならないと思った。
 こうして二カ月が過ぎ、八月の第一週はここ数年にない暑さであった。朝から湿度が高く、午後になって雷雨になった日のことである。書斎にも甲虫が大発生した。スミス氏は以前ほど慌てなくなっていたが、壁の隅に団子状に固まって蠢いている甲虫を見ると、体が痒くなった。いったいどこから湧いてくるのであろうか、書斎は入り口を除いて完全密閉されていると言ってよく、蟻一匹入る隙間がないのに小豆大の虫が入り込むのは不思議であった。午餐はそこそこにして、バケツにたっぷり漂白剤を流し込んで虫退治が始まった。バケツの表面は瞬く間に黒一色に染まって、どんどん溜まって行くのを見るのは爽快であった。書斎が終わると、居間からキッチン、家のあらゆるところで虫退治に没頭した。存在しない虫を捕まえてはニヤついているスミス氏の姿は、事情を知らない者が見たら狂人そのものである。髪と髭は伸び、頬の肉は落ち、口辺と眉間に深い皺ができて、目だけはアフリカで獲物を追うハンターのように爛々と輝いているさまは、ハイド氏もこうもあろうと思わせるに十分であった。
 夫人は夫の好きなようにさせた。夫婦はめっきり会話が減った。何か、片方が言えば必ず一悶着起こさずにはいなかったからである。雨は一向に止む気配を見せない。屋根を叩く雨の音がフライを揚げているように聞こえる。雲間を割って光る稲妻が大音響を発てる。二人で家に居ると、お互いに神経をすり減らすので、夫人は何かと用事を拵えては外に出たが、この雨ではシャワーを浴びに行くようなものであるから家にいることにした。だが一つ所に居るのは罵声を浴びる危険がある。そうかと言って逃げ回るのも不自然である。この頃のように機嫌の良いときと、そうでないときが交互に表れると、夫人は離婚の二文字を思わないことはなかった。が、すぐにその考えを打ち消した。思っていること、それも不吉な考えは実現するという迷信を持っていたからである。今日の湿気と虫の多さで夫は機嫌が悪いと諦めて係るしかないと開き直った。夫人は冷蔵庫の整理を思い立った。こういう日にこそやるべきである。使いかけのチーズやドレッシング類、黄色くなったホウレン草や熟れ過ぎたトマト、いつ買ったのか、わからない牛肉の塊、霜がたっぷりついた冷凍食品が、ところ狭しと入っている。それらを取り出して内側を雑巾で拭った。棚は食品の汁でべたついて、臭気を放った。冷蔵庫の中に半身を入れて掃除していると、後ろで夫の声がした。
「なんだい、今日に限って掃除なんか始めて。君はいいね、暇を持て余していて。俺は虫退治で仕事に手が付かないよ。少しは手伝うっていう気持ちはないのかね」
 見下したような、毒のある言い方である。ところが夫人はこのときを待っていた。冷蔵庫に半身を入れたまま、
「そう、それじゃ冷蔵庫が終わったら手伝うわ。コーヒーでも飲んで休んだら?」
 と素っ気なく言った。スミス氏は意外な返答に驚いた。今まで虫退治を止めるよう言うばかりであったからだ。いったいどういう心境の変化なのだろうかと考えたがわからなかった。しかし、自らやるというのだから困らせてやろうと思った。稲妻が光ってスミス氏の顔を蒼白くした。
 夫人はニコルズ博士にスミス氏の精神不安を少しでも解消するために、夫のよき理解者になってあげることだと説明を受けていた。だが勘の良い夫に不用意に申し出るのは剣呑である。きっかけを探していたところなのであった。少し前のスミス氏なら手の内が分かっただろうが、内攻する感情と甲虫の大量発生、それに雷雨も影響して意地の悪い考えだけが浮かんだのである。
「おい、何をやっている。そんなところには一匹もいないじゃないか。そう、そこだ、突っついて落とすんだ」
 スミス氏がキッチンに来たのは、左の前足が一本取れた甲虫を捕まえるためであった。目に付くのは根こそぎ退治したが、この虫だけはスミス氏の目を逃れて、書斎から居間、キッチンへとすばらしい速さでゴキブリのように天井を這って行ったのである。夫人はスミス氏の指差すほうを箒の先で突いた。見えない虫を捕るのは徒労であるから、幼稚園児の遊戯に参加する保護者の気持ちでやった。自分が情けなくもあり、大学教員である夫が、こうもおかしくなってしまったのが憐れだった。
「よし、隅に追い込んだぞ。今だ、落とせ!」
 夫人はどうなっているのか、さっぱり状況がつかめない。天井を見上げる夫の目には、確かに甲虫が映っているとしか思えない。どんな役者でも彼ほどの演技は出来ないだろう。
 夫人はシミを虫だと思って突いてみた。
「やったぞ!クリステル」
 夫が歓喜の声を揚げた。どうやら撃ち落としたようである。スミス氏は屈んで甲虫を摘まむと、バケツの中に放り込んだ。額には玉の汗が出ている。一仕事終えたあとの、安らぎの表情を見るのは久しぶりであった。夫人は、これで巧く行ったと思った。
「クリステル、それだけか? やる気があるのかね。御嬢さんって年じゃないんだ、虫が恐いってことはないだろうな」
 スミス氏は夫人が二時間も係って、せいぜい三匹なのを揶揄した。 
虫取りのときはいっしょに手伝ったが、存在しないものを捕まえるのは難しかった。退屈さとスミス氏の罵声で二時間もやるとぐったりしてしまった。だがスミス氏の顔が徐々に明るくなって行くのを見逃さなかった。状況を説明したニコルズ博士にも励まされて耐え忍んだ。スミス氏はなぜ今になって夫人が手伝う気になったのか、しばらくすると分かったが、夫人を愛おしいと思う気持ちより癪に障った気持ちが勝った。『これじゃ、俺を狂人だと思っているんだ。それならそうと、精神病院から迎えの車を寄こせ。クリステルも博士も俺を憐れんでいるに違いない。今は黙っていよう。クリステルはそのうち疲れて投げ出すだろうよ。そうしたら暴露してやる。俺は断じて狂ってやしないんだ。偽善者どもめ』 
 が、不思議なことに二週間も経つと夫人は腕を上げて、広口瓶に三十匹くらい捕まえるようになった。一カ月経つとスミス氏と同じか、多い日も出て来た。『クリステルは甲虫が見えるようになったのだろうか?』と疑わざるを得なかった。相変わらず夫人には見えていなくて、自分の幻視が進んでいるとも考えられた。だがスミス氏は詰問するのを控えた。夫人の答えを憶測するだけでも気味の悪いものを感じたからである。 


                                                                 ⑤―④

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