「甲 虫」 (5)






 甲 虫

(五)

 九月もあと一週間で終わりである。スミス氏と夫人の共同作業は続いていた。最近では夫人の捕獲量がスミス氏を上回っている。スミス氏が家中を駆け回って、日に二、三匹しか捕れないときも、夫人は広口瓶の三分の二を埋めている。いったいどこで捕まえて来るのだろうと思った。決してスミス氏の腕が落ちたわけではない。甲虫の数が減ってしまったのである。夫人を苛める計画は挫折した。却って夫人のほうがスミス氏の不甲斐なさを冷笑している。
「あなたもしっかりやってくれなくちゃね。男なんだから」
 と素っ気なく言われた日には返す言葉が見つからなかった。スミス氏は焦りが生じた。前は甲虫がいなくなればよいと思っていたが、どうにか大量に湧いてくれないものかと願った。しかし甲虫は減る一方で、まったく見つからない日もあるようになったが、夫人は以前にもまして捕まえて来る。『自分には甲虫が見えなくなってしまったのだろうか、そんなはずはない、クリステルの瓶には確かにいるではないか!』
 二人は競って収穫高を自慢するのが日課となっているので、互いに別の場所で虫取りをしていた。スミス氏はどこかに秘密の穴場があって、夫人はそれを知っているのだろうと思って、ある日、こっそりと虫取りしているように装って夫人から目を離さなかった。しかし、なかなかチャンスが無かった。うっかり後を付けて行けば、愚痴の一つも言われるだろうし、逆に手伝わされるに決まっているからである。書斎で翻訳をしているふりをして、耳を澄ませていた。スリッパの軽やかな音がドアの向こうにして通り過ぎて、バス・ルームのドアを開ける、ギイという音がして、また閉まる音がした。スミス氏は『しめた!』と思った。脱衣場は中鍵がかかるようになっているのだが、建てつけが悪く、蝶番の有る側に隙間があるのだ。そこに右目を押し付けて夫人の行動を見張ることにした。
「さあ、さあ、Rainちゃんも、Macaroniちゃんも出ていらっしゃい……」
 と気味の声が聞こえた。だが、夫人はドアひとつ隔てたところに夫が居るとは思わなかった。一挙手一投足も見逃さすものかと目を凝らしたが、突然視界が暗くなって驚いた。見つかってしまったと思い、声を上げそうになった。ドアに脚立を押し付けたので視界が遮られてしまったのである。夫人の階段を上る振動が伝わって来た。スミス氏は天井の甲虫を捕るのだなと思ったが、これでは意味がないので書斎に引き上げた。頭を掻き毟りながら『浮気の現場を押さえるんじゃないんだ。質問すれば済むことなんだが』と独り呟いた。甲虫は現れなかった。広口瓶の底には、今朝入れた漂白剤がきれいなままある。翻訳をしようと栞の挟んであるぺージを開いたが、夫人が気になって出来なかった。何をするべきか考えたが、思い浮かばない。そうかと言って、このままじっとしていることも出来なかった。当分の間、夫人はバス・ルームから出て来ないと思ったが、例の金属の擦れる音がしたと思うと、書斎のドアが間もなく開いて夫人が瓶を片手に入って来たのには驚いた。
「まあ、ロバートったら、なんていう顔しているの? ねえ、これを見てちょうだい、たくさん捕れたでしょう、ほら」
 と机に置いた瓶の三分の二が黒々とした虫で埋まっている。
「あなたは、どれだけ捕れましたの?」
 まったく嫌な質問をする。スミス氏は面倒臭そうに、床に置いた空の瓶を取り上げて夫人の瓶の横に置いて目を逸らした。
「一匹もいないじゃない? どうしたの。家は虫だらけなのよ。少しは働いてくれないと困るわ。このところ、ちょっと怠けているのではなくって? 小説の翻訳もよいけれど、しっかりしてくれなくちゃ」
「いや、そうじゃないんだ。俺は……」
 『虫が見えないんだ』と言おうと思ったが止めた。スミス氏は夫人の目が冷笑しているのを感じた。夫人は壁の時計をチラッと見て、
「もうこんな時間だわ。夕食の支度をしなくちゃ」
 と言い残して出て行った。スミス氏は二個の瓶をもう一度眺めると、はっ!とした。両方とも空だったからである。『こりゃ、いったいどうしたことだ!』 夫人の持ってきた瓶の蓋を取って、上から覗くと机の木目が見えた。『クリステルはマジックを覚えたのだろうか?いや、そんな器用な女じゃない、あいつは肉のスライスは下手で、俺のほうがよほど上手なくらいだ。掃除も駄目で、上手なのは化粧だけなんだ。しかしそれにしてもおかしいぞ。さっきまでは確かに甲虫が詰まっていた。クリステルだって言っていたではないか。クリステルに聞いてみるべきか?それはちょっと不味いな。言質を取って「それ見たことじゃない、やっぱり、あなたは幻覚を見ているのよ」と来るに決まっている。そうなったら俺は……。最近の俺はクリステルを恐れているのかもしれないぞ。俺は自分で自分に催眠術をかけているのかもしれないなあ。ええい、もうちょっと様子を見てやれ!』 瓶に手を入れてみたが、物に当たる感触はなかった。
 頭が混乱して髪を掻き毟った。毛玉のようなものに引っかかって、指がスムーズに流れない。『またか!』 ダスト・ボックスに頭を入れて、甲虫を払い落した。髪からこぼれたのが、背中に入って擽ったい。着ているものを脱いで甲虫を摘まみ出した。ベッドに横になってしばらくすると、全身が痒くてたまらなくなった。ちょっと居眠りをしている間に、スミス氏の上半身は甲虫でいっぱいになってしまった。もともと体毛の濃いほうでないスミス氏に黒々とした毛が生えているように見える。『なんていうこった!』驚いて起き上って、甲虫を払いのけるが、肉に喰らいついて離れない。無理に摘まんで引っ張ると、肉が持ち上がって、ようようのことで離した。しかし、続々と甲虫はベッドに上がって来て、スミス氏の肉に喰らいつく。首筋から顎のあたりまで登って来た。天井からも降って来るのがいて、それが髪や頬に喰らいついて離さない。一匹づつ退治しているのでは、到底、間に合わない速さで攻めてくる。キャンディーに群がる蟻のようだ。肉を食いちぎった甲虫は潜り込もうとしている。シーツは血で汚れた。『虫に喰われてしまうのはやりきれない』
 体中が痛みと痒みでうずまいた。鼻から侵入した甲虫が喉に降りて、痰に交じって吐き出された苦しみは非情なものだった。手の届かない背中は火傷のような痛みである。肉の下に潜った甲虫は、内臓に達する勢いだ。もう終わりだと思ったら、意識が遠のいて行った。
 剃りの残しの髭を抜きながら、みみずばれを撫でた。鏡に映った顔は喧嘩でもしたような有様である。シャツの下も爪のひっかき傷がいっぱいで、汗がしみて痛かった。気持ちの悪い夢を見たものだと思った。書斎を出てクリステルを探したがいなかった。今日はニコルズ博士のところに行くと言っていたが、もう出かけてしまったのだなと思った。書斎のカーテンを引くと太陽が燦々と照って、レースで縁取りされた日傘を広げた婦人が家の前の道を歩いて行った。まったく静かだった。
「ほう、そうですか。虫は減っているのですか。奥さん、あと少しの我慢です。峠を越したようですね。上手く行きましたな」
「ええ、先生のおかげですわ。最近では私のほうが虫を捕るので、家の中でおろおろしていますの。それが、叱られた子供みたいで気の毒なのですけれど、悪態を言うもんですから懲らしめたい気持ちもありますわ」
「そんな人間ではないのだがなあ。やっぱり神経に障るのでしょうな」
「私が見えると言うと、ロバートも見えるらしいのです。これはどういうことなんでしょう?」
「それが不思議ですなあ。あなたに頼り切っているからだと思いますがね。いずれにしても、あと少しです。今度は徐々に虫を減らして、ついに消滅させる。この手で行きましょう」
 秘書が次の来客を告げに来たので、夫人は立上った。
 車中、夫人の隣りに座っていた二十代前半であろう女性の腕に西洋彫りの蝶が施してあった。それを見た夫人はおぞましく感じた。日本人よりは刺青に理解があるが、虫を体に埋め込むようで気持ちが悪かった。夫人は女性一般が、そうであるように昆虫が嫌いである。しかし蝶だけは美しいものとして受け入れられているのが不思議であった。頭部の突き出た二個の複眼とストローみたいな口の周りが繊毛で覆われているのは、よく見ると怖さを感じる。腹部の節も異形の世界である。それに幼虫の不気味さはたまらなく嫌だった。彫り物の蝶が夫人の腕に当たったとき、卵を産み付け、やがて角の生えた幼虫が体を嘗め回すのではないかと想像された。夫もへんなものに取りつかれたものである。もし自分が夫のようだったら、衝撃で気が狂ってしまうかもしれないと思った。高校時代に「変身」を読んだときは、全身が痒くなってしまった。
 夫人と博士の作戦は功を奏した。これの日から一カ月後、ついにスミス氏から甲虫は去ってしまったのである。だが、スミス氏の老け用は以前にも増して酷くなった。夫人は父親のほうがまだ若々しいと思ったぐらいである。日がな、椅子に座って過ごすのはしばしばで、呆けてしまったのではないかと夫人は心配した。大学には二カ月の休暇延長願いを出した。厄介者は追い出したのに、何が原因で夫が過ぎこんでいるのか、皆目見当が付かなかった。
 十月も終わりに近づいた或る晩、スミス夫妻がキッチンで夕食を摂っていると、窓の隙から一匹の虫がブーンと羽音を立てて入って来た。そしてテーブルの真上にある蛍光灯の笠にぶつかって落下した。上手い具合に皿は避けて、クロスの上に落ち着いた。あと一センチずれていたらサラダ・ボールの中に入ってしまうところだった。スミス氏が摘み上げると、それは緑色の大きい甲虫であった。外ではコオロギが鳴いているのに、まだ夏の虫がいるのは珍しい。スミス氏は食事の手を休めて甲虫を見つめた。夫人は、また病気が始まるかもしれない予感で胸がいっぱいになった。が、それは杞憂であった。スミス氏はナプキンで甲虫を包むと上着のポケットに仕舞い込んで、何もなかったようにフォークとナイフを動かした。
 翌日、スミス氏は四カ月ぶりに外に出ることにした。夫人は付き添って行くべきか、考えたが、先に、
「俺は大丈夫だよ。今日は近くを散歩してくる」
 と言った。左手をポケットに入れると昨夜の包み紙があった。解くと甲虫はまだ生きていた。玄関を開けて上に放り投げると、地面すれすれのところで羽を広げて、朝日のなかに飛び立った。
「やっぱり、俺には甲虫が必要なんだ。必ず大きいのを見つけて来るよ」
 スミス氏の顔に若さが戻っているのを夫人は見逃さなかった。


                                                                 ⑤―⑤

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