三島由紀夫著・師・清水文雄への手紙

「師・清水文雄への手紙」・三島由紀夫著(新潮社)

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 私は学校時代を通じて、本当の意味での「師」と呼べる人はいないのだが、これを残念なことであると、思う人はいるかもしれない。ある人を、生涯を通じて「師」とできる人は幸運であると思う。「師・清水文雄への手紙」は益々その思いを強くするばかりである。
清水文雄は平安朝文学の研究者で、昭和13年に学習院へ赴任、翌年から三島の国文法と作文を担当、15年に寄宿舎・星雲寮の舎監となり、三島由紀夫はたびたび訪れ、文学上の薫陶を受ける。16年、「花ざかりの森」を「文芸文化」に推薦、三島由紀夫のペンネームを付ける(異論もある。平岡 梓著「倅・三島由紀夫」では適当に電話帳を開いて決めたと記されている)。22年、広島師範学校教授に転任後も終世、三島との交際は続いた。平成10年没。
第一回は昭和16年7月28日付、封書で三枚「花ざかりの森」評を乞う。この年は未発送分を含めて3通、翌17年、25通、18年、15通、19年、11通で、20年の8通を最後に45年まで4通以下となる。17年から19年は三島の学習院高等科時代で、自作の評、読書と感想、同人雑誌「赤絵」、学習院文芸部の「輔仁会雑誌」、清水らが主催する「文芸文化」について、時候見舞等で占められる。
18年7月9日は志賀直哉に会った感想、同年9月5日は「花ざかりの森」出版の件、19年8月25日は大学合格の知らせがある。大人びた調子で綴られている。
21年から激減するのは、双方の環境の変化による。三島はこの年、1月、鎌倉の川端邸を訪ね、川端の推薦で「煙草」を雑誌「人間」に発表する。これをきっかけに、発表の場が学習院関係の雑誌から商業誌に変わる。清水も22年、学習院を離れ、広島に移る。文学上の相談は川端康成になる。新潮社版「川端康成・三島由紀夫往復書簡」は「師・清水文雄への手紙」を受け継ぐ体裁になっている。文も短くなり、時候の挨拶、清水の贈り物、広島特産の「牡蠣」、「広島菜」の御礼、献本、近況報告で、文学上の話題は少なくなる。
25年4月16日付、川端から広島行きの誘いを受けるが辞退、「愛の渇き」に専念と他の小説家連が付いて来るのでゆっくりできないからと書いている。実現するのは、遅く、昭和41年になってからである。同年8月、「奔馬」の取材のため、奈良、広島、熊本へ旅行する。旅行中の日程は本書解説・宇野憲治氏の文に詳しい。このとき、土産の置時計を持参している。(口絵写真あり)
8月25日、広島着。この日の様子を宇野氏の文から一部引用する。
〈清水は三島に竹川を保田与郎の弟子として紹介する。その後、清水が予約していた三滝寺にある三滝荘(注 当時高級料亭であった)に行く。三人で夕食を食べながら腹蔵なく歓談、三時間余に及ぶ。
一、竹川が戦中に獄中で読んだ「神風連」の本について
一、竹川所属の大東塾の十四士割腹事件の真相について
一、三島の最新作『英霊の声』の批判について
一、熊本の荒木精之氏について
等の内容について話す。竹川の話に三島は大いに感銘する。宴果てて後、タクシーで三島をホテルに送り、二人は帰宅する。〉
竹川とは保田与十郎門弟、元広島経済レポート社長の竹川哲生氏で、三島とは初対面であった。翌26日は宇品港から江田島の海上自衛隊第一術科学校を見学。27日、熊本へ行く三島を清水・竹川の二人が見送る。以上も宇野氏の資料からである。9月3日付、三島から御礼の書簡、
〈前略
こちらから御礼状も差上げぬうちに早速書状賜り恐縮に存じます、その後、お陰様で荒木氏のお世話にあづかり、熊本の取材は予想以上に成功、荒木氏の御人柄にもすつかり敬服しました。現今得がたき人物と存じます。(以下略)〉
熊本での三島は清水文雄と直接関係はないが、荒木精之は清水を通しての紹介であった。宇野氏の文には出ていないが、出迎えには荒木氏のほか、福島次郎が居たとみてよいと思う。「剣と寒紅」の176頁以下の詳細さは空想で書けるものではないからだ。
福島も荒木と付き合いがあった。荒木は「剣と寒紅」によると、雑誌「日本談義」を発行し、熊本の政治、教育、医学、芸能、商業等あらゆる分野が網羅され、知事や市長と比肩するほどの発言力を持つ存在であった。とくに神風連の研究者として名を知られていたという。ホテルで小説の痴情があったかは誰も断言できない。第一に「剣と寒紅」は小説であり、福島次郎の存在はこの小説によって明らかになったので、それまでは三島の取り巻きも知らなかったのである。真相は不明である。
最終は昭和45年11月17日付、これで99通は因縁めいている。東急百貨店での「三島由紀夫展覧会」、「作家論」、政治情勢の感想等で、〈文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友人は伊沢氏一人になりました。〉と嘆いている。〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。〉と11月25日を予言した言葉も見える。
しかし、よく残っていたものである。大半が学習院時代のもので、将来の三島由紀夫研究のために、などという考えは、勿論なかったはずである。清水氏は他の学生からの葉書や書簡なども大切にさせていたのではないかと思う。これほど交際が続いたのは、清水氏の国文学の研究者よりも人柄によるところが大きいだろう。


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この記事へのコメント

内通者
2013年12月07日 00:33
元広島経済レポート会長の竹川哲生氏、との記載は合っていますが、正確には2代目元広島経済レポート((株)経済レポート元会長・元社長)であり、今の広島経済レポートとは全く異なります。今の広島経済レポートは、フクマ氏が竹川氏から離れて出て行って立ち上げたものであり、支店があった海田でフクマ氏が広島経済レポートを名乗ったのです。迷惑に思い、仕方なく竹川氏たちは登記の会社名(株)経済レポートへ変えたとのこと。
2013年12月08日 01:39
情報提供、ありがとうございます。

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