夏の一日 第三回

夏の一日



第三回


 朝飯は軽く済ました。由紀子がトーストとコーヒー、デザートに手製の焼きプリンを用意してくれた。
「僕は、これから犬の散歩と小屋の修理をしなくてはいけない」
 佐伯は寝癖の付いた頭をぽんぽん、叩きながら言った。
「動物を飼っているとたいへんだなあ。僕は女房だけで手一杯さ」
「おい\/、細君を動物扱いは拙いぜ」
「心配しなくても、向こうも動物だと思っているよ。石坂の時代に戻りたいね。僕は選挙事務所に顔を出しに行く。市議会戦で頼まれてね。手弁当でオルグさ」
「ほう……。水野君、すまないが、そういうわけだ。今日はこれで失敬するよ」
「僕も、午後から野暮用ができてね。何かとあって、神経の休まる暇がないね」
 佐伯と羽田は帰った。
 私は引き出しから鎮痛薬を出した。二粒、口に放り込んだが、水がない。流しに行くのは面倒なのでかみ砕いた。苦い味が舌に突き刺さった。やっぱり水で口を漱ごうと思って、立上ろうとしたとき、すーっと引き戸が開いた。
「ねえ、わたし、経堂まで行ってくるわ」
「ええ、何をしに」
「麻衣の浴衣が出来たんだって。昨日、お母さんから電話があったのよ」
「今日はやけに暑いぜ。熱中症になったらことだよ。明日にしたらどうだい」
「だから浴衣が要るのよ。夕食はどうするの」
「そうか……。俺は外で食べて来るよ」
「わかったわ。戸締りをちゃんとしていってね」
 由紀子は書斎と玄関を残し、あとはみな鍵を掛けて出かけた。家の中はがらんとした。午前中だと言うのに酷い暑さである。麻衣はだいじょうぶだろうか、やっぱり、今日は行かせないのがよかったかもしれないと思った。
 時間はまだある。鞄から岩波版の「罪と罰」を取り出した。毎日、十五頁読むのを日課としているのだ。普段は電車の中で読んでいる。なぜ、今さらドウストエーフスキィか、理由はない。あえて言えば、古本屋で目に留まったからである。本と言うのは不思議で、向こうから気に入った人間がいると、こちらに語りかけて来るのである。昭和四十五年版である。紙は茶けている。アプローチがなければ、このようなありふれた書を、わざわざ読みにくい古本で買うこともなければ、また読むこともない。なぜ、毎日、十五頁であるか。しばらく読み進めると、十五頁ごとに、角を交互にして、三角に折り目が付いているのを発見したからである。前の所有者が付けたのだろう。紐は付いているから、何かの目安のために印を付けたのだ。私もその方法に従ったまでである。もうしばらくすると、ラスコリーニコフが婆さんを叩き殺すシインが出てくるはずだ。学生のころ、一度読んだが、そのあとの展開がさっぱり記憶にない。が、開いたところで考えは変わった。いくら時間を潰すためだと言っても、この暑さで読書は、いかにも気が利かないと思った。炎天下で鍋焼きうどんを喰うようなものである。
 由紀子の潔癖症にも呆れる。流しがぬるぬるで平気も困るが、塵一つ、許せないのは、一緒に生活すると恐怖だ。家の中にぴりぴりした空気がいつも流れているので、休まらない。そういう性分であるから、古本は大の苦手である。いつか、麻衣に古本屋で絵本を買ってきて与えたが、頭ごなしに叱られた苦い経験がある。物は人から人に渡るので、新しいからと言って、それほど思うように清潔とは限らないのである。諭したところで馬の耳に念仏であるのは分かっているので、他のことは由紀子の流儀に従うようにしている。暇さえあれば掃除に専念している。そのおかげで、箪笥の塗りが剥がれてみすぼらしくなってしまった。そういう方面には一向に平気でいられるのだから、おかしなものである。
 午後は暑さが弱まるだろうか。窓から空を眺めた。頭上には雲一つない。ただ、東のほうに分厚い雲が犇めいている。出かける先は、そちらの方角である。しばしば、あまりにも暑い日の夕方は、その反動で大雨になる事がある。傘を用意しておくべきかもしれない。それはすぐに打ち消した。弱気な考えは嫌いな性分なのである。そこで濡れたら、濡れたでよいと思った。
 行かなくてはならない要件は中学校の同窓会である。級でなくて、学年合同で行う旨の案内が一カ月前に来たが、一通り見て捨ててしまった。私はあらゆる同窓会なるものに参加したことがない。それは、昔を懐かしむか、自慢話に陥るだけのことで、何の得るところがないからである。中学生はまだ子供である。偶然に同じ組になったからと言って、生涯、友として拘束されるのは御免だ。それに三十年も経てば、それぞれの価値観も異なっていることだろうし、今さらという気がしてならない。では、なぜ出席することになったかと言えば、一週間前の今日、古本屋から「罪と罰」の包みを抱えて出て来たところを、袖を引っ張る者がいた。古本屋の店員がつり銭を間違ったのかと思って振り返ったら、
「水野君だろ、水野だろ、そうだよね」
 と、開襟シャツの男が笑顔で言う。はて、誰だろうと思った。私には覚えがない顔である。しかし、名を言い当てたのだから、こちらで知らないでも、向こうでは知っているのだ。私は返す言葉が見つからなかった。呆気に取られている私に、
「呉陽一だよ。中学三年のとき、同じ組だった」
 薄呆けた記憶は徐々に鮮明になって、呉陽一の誰であるか、理解できた。呉とは中学卒業後は賀状の遣り取りだけは続いていた。親友と言うほどの間ではなかったが、自然とそうなったのである。考えれば不思議だ。しかし、ここ十年は私が出すと呉から返事が来なかったり、その反対もあって途絶えがちになっていた。だから、案内状が来たときも、呉のことは頭に浮かばなかった。簡単に挨拶は済ませた。
 呉に案内されて、駅前のコヒー・ショップに入った。彼は出された水を一気に飲み干すと、おしぼりで顔を拭った。
「君のところにも同窓会の案内状が来ているだろう」
「来たが、僕は行かないつもりだ。もう破いてしまった」
「やっと君の家がわかってね、出向いたところだ。電話でもよいのだけれど、近頃は電話を嫌がる人が多くてね。君はどうだか、わからないけれど不安だった。それで直接会って、交渉しようと思ったのだ。契約や保証人の話ではないから安心してくれ。ぜひ、同窓会に来てはもらえないか」
 私は同窓会の嫌いなわけを説明した。
「それは、僕だって同じだ。案内状の発起人に小林健一がいるのを知っているか。僕はねえ、ちょっとこれを見てくれないか」
 と言って、左目を指差した。実は逢ったときから白濁しているのが気になっていたのだ。
「僕はねえ、小林の席の後ろだったのだがね、卒業式の前日、小林は突然振り向いて、悪ふざけでシャープ・ペンシルを逆手に持って、僕を刺そうとしたのだ。ところが、先が目に入ってしまって、失明まではいかないけれど、物の形がなんとかわかる程度までに視力が落ちてしまった」
 そんな事故が有ったのは、まるで知らなかった。きっと、卒業や高校のことで浮かれていたのだろう。
「卒業式は出られなかった。それはよい。しかしねえ、片方の目が見ないのは不便なのだよ。慣れてはいるが、こないだも自転車と衝突しそうになった。そういうときにね、苦しみが蘇るのだよ。事故の翌日が卒業式だからねえ、担任の向井先生も僕に付きっきりというわけにもいかなかったのだ。今になって思えば、公務員だからね、面倒なことに巻き添えを食いたくなかったのが本音かもしれない。先生は亡くなってしまったけれども、やっぱり僕は恨んでいる。もっと恨んでいるのが小林だ。両親と先生で小林の家に押しかけて、治療費は出してもらうことに話はついた。ところがだ、小林は隠れてしまって、詫びの一言も、これまでに無いのだ。小林の親父は弁護士でねえ、僕の両親は中卒、上手く丸め込まれてしまって、からっきし意気地がない。今の親なら、すぐ訴訟を起こすだろう。そんな頭も無かった。すべて仕方がないで決着が着いてしまった。もう金は諦める。ただね、一言でよいから、詫びをしてもらいたいのだよ。僕の中学は終わっていないのだ」
「なるほど、君が同窓会に出る理由はわかった。しかし、どうして僕が……」
「中学時代の友人でつながりがあるのは君しかいないのだ。一人で小林に談判するのは心細い。それで、お恥ずかしい話だが、付き添って欲しいのだよ」
「そうは言っても、僕はさっきも言った通り……」
「僕だって、こんな顔だ。はっきり言って行きたくはない。しかしねえ、このチャンスを逃したらと思うと……。きりを付けて、僕の中学生を終わりにしたい。昔の僕が可哀そうでどうにもならない。頼むよ、水野君」
 呉はテーブルに置いた私の手を固く握りしめた。そして潤いを帯びた見えるほうの目は、私にノーを言わせない力で迫って来た。


                                                                ⑦―③

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