夏の一日 第四回

夏の一日



第四回


「ねえ、あなた、たいへんなことになっちゃった」
 と、暇で爪を切っていたら由紀子が書斎に飛び込んで来た。上気した顔で息が荒い。暑さのせいばかりではないようだ。
「おまえ、もう経堂から戻ってきたのかい。ずいぶんと早いなあ」
「途中で戻って来たのよ」
「麻衣は」
「寝かしつけてあるわ」
「たいへんなことって、なんだい」
「わたし、今朝からお腹が痛かったのよ。昨日の焼き鳥とスイカとビールに中ったたんじゃないかしらと思ったの。でも気分が悪いっていうほどでもないから経堂に行くことにしたわ。でも電車の中でお腹がぴくぴく動いた。あっと思った」
「えっ」
「生まれるのよ、ねえねえ、卵が産まれるのよ。いきなりだもの。麻衣のときはわかってたわ。こんな暑いときに驚いちゃう」
「卵……。何を言っているのだ。さっぱりわからない」
 由紀子は愛おしそうに腹を見ながら、撫でている。
「なにを、とぼけているのよ。二人目ができたの」
「そりゃ、ほんとうかい。医者に見せたのか」
「行かなくても、わかるわよ、二度目なんだから。ねえ、早くしないとたいへん」
「そんなに急に生まれるものかい」
「卵は待ってくれないわ。さあ、巣の用意をしてちょうだい。わたし、お腹が張っちゃって動けない」
「卵……。巣……」
「えーと、浮き輪に空気を入れて、ビニール袋に毛布を入れて、それから新聞紙ね、二十枚くらい用意して。それからぬるま湯を盥に作ってと、タオルが十枚は入るわね。わたしは着替えてくるわ。部屋はキッチンのとなりでいいわ。雨戸を閉めてちょうだい。落ち着かないから。大急ぎでお願いするわ」
 そう説明すると二階に向かった。私は下から、
「ちょっと待ってくれ。話がわからない。第一、浮き輪なんか、あるものか」
 由紀子は立ち止まって、首を曲げた。
「麻衣のときに使ったのが、居間の押し入れにあるわ」
 これは、どういうことなのだろう。暑さで気がふれてしまったのだろうか、それとも何かの冗談で、私を試しているのだろうか。しかし、今は妻の言うようにしたほうが、よいように思った。
 麻衣は腹を出して眠っていた。タオルケットを掛けると、口をもごもごさせた。押し入れを開けると、本当に浮き輪があった。いつから、この家にあるのだろう。麻衣のでないのは確かである。
 用意ができたので、由紀子を呼んだ。浴衣に着替えて、一段/\、確かめるように降りて来る。帯を締めていないので、はだけない様に、片方の手で浴衣を押さえていた。その格好がいかにもだらしがなかった。
「うん、いいわ」
 部屋をのぞくと、笑みを含んだ顔になった。さて、これから、どうするのだろう、私は学生の頃、工場のアルバイトでの初日、仕事を授かる直前の緊張と不安に似た感情がこみ上げてきた。由紀子は部屋の中央に広げた新聞紙を五、六枚重ねて敷き、その上に浮き輪を置いた。そして、全体をビニールで包んだ毛布で覆った。
「降りて来るのがわかる。女って不思議ね、巣を見ると、自然と蠕動が始まるのよ」
 浴衣をまくり上げて、尻を浮き輪の中に落とした。前かがみになって、両手をそろえて、床に着いた。ちょうど、蛙が獲物をねらうときの姿勢である。
「さあ、あなたは、わたしが動かないように前に来て、上から肩を押さえて置いてちょうだい」
 私は最後まで付き合うことに堪忍した。しかし、麻衣がいるというのに、真っ昼間から雨戸を閉めきって、何とも穢れた儀式をしようとしているのだろう。世界に、こんなカップルは二つとあるまい。そう思うと情けなくなった。
「これで、いいかい」
「うん。それから蛍光灯を消して、豆電球にしてね。やっぱり見られるのは恥ずかしいわ」
 私も見たいと思わないが、暗みに浮かんでいる二個の白い山は、女の尻というより動物的で猥褻な感じがした。扇風機の音だけがする。この部屋と書斎には冷房がないのである。下着が肌に張り付いて気持ちが悪い。ふと、玄関の鍵は閉めてあるのだろうかと思った。こんなときに人でも尋ねてきたらと思うと、不安になった。だが、調べに行く余裕はなかった。由紀子は顔を上げた。額の玉の汗は、流れ落ちる寸前で、目は半ば閉じ、大きく開いた口の奥に銀を被せた歯が冷たく光った。死にゆく者の顔は、こうではあるまいかと思われた。喉の奥から「うっ、うっ…」と声を出した。それを聞いたとき、異常な事態になろうとしている、これは冗談や幻影では断じてないと理解した。
「おい、だいじょうぶか」
 いよいよ陣痛が始まったのか、心臓は恐怖で早鐘を打った。いや、子供が生まれるのではない、卵だ、卵だと自分に言い聞かせた。
「いく……わ……よ、あっ、出て……来るぅ……」
 二個の白山は小刻みに震える。由紀子の額に雷のような青筋が走って、汗が滝のように流れ落ちる。まるでサラダ油を顔に塗りたくったようである。
「どうしたらよいのだ」
「痛い」
「おい、しっかりしろ」
 苦痛に歪んだ由紀子の顔は、地獄の責め苦に喘ぐ罪人のようである。大きく開いた目は、涙で異様な潤いを帯びてはいるが、死んだ魚のように視点が定まらず、虚空を睨んでいた。
 私はといえば、ラマーズ法の介添えをする亭主そのものだった。実は麻衣の出産のとき、由紀子は私の立ち合いを希望したのだが、のちの事を考えると、衝撃で精神に障害が残るのではないかと思い、止めたのである。浮き輪の中で、起こっていることを、水族館みたいに下から眺めたら、耐えられるものではない。惨劇を想像するだけでも身震いがする。
「うわっ」
 と叫ぶと、深呼吸をした。
「どうした」
「生まれたわ。一番太いところを越すと、つるんと出た。さあ、卵を取り出して、お湯で洗ってくださいな。終わったらタオルで水分を拭ってね。卵は呼吸しているから、水が有ると窒息してしまうの」
 そう言って、前につんのめった。突然、力を抜かれたので、肩を押さえていた私の両手は宙で舞った。死んでしまったのかと思ったが、荒い呼吸音が聞こえるので安心した。百メートルを全力疾走したオリンピック選手みたいだ。
「早くして……」
 ビニール手袋を用意しておくべきだった。由紀子のうしろに回ると、浮き輪の中に楕円形の白い物体が収まっている。大きさは駝鳥の卵ぐらいだろうか、豆電球の光で、青白く光沢を放っていた。この女は本当に人の卵を産んでしまったのだなと思った。見てはいけない物を見てしまった後悔と、悪魔に魅入られた悔しさがこみ上げてきた。
 とにかく、由紀子の言うとおりにするしかない。もうお伽噺ではなくて現実なのだ。私は両手で卵を持ち上げようとすると、付着しているぬるぬるした液体が邪魔をして、意外にも重かった。それにぶつぶつしたものが交じっていて不気味である。私はなるべく、卵を見ないように、盥に入れた。湯が跳ねて顔に掛った。
 卵にこびり付いた粘液はタオルでこすってもなかなか落ちない。黒い粒状のものが爪の間に入る。もしかしたら、これは糞ではないかと疑った。
「ねえ、麻衣が生まれるとき、わたし、剃毛と浣腸されたんだ。うふふふ…」
 いつか、由紀子は笑い転げて話したが、嫌な感じがした。下司な話をする女ではなかったのだが、子供ができて変わったのだろうか。糞も卵と一緒に降りてしまったのだろうか。昔の鶏卵は糞が付いていたのがあった。
 私はなるべく卵を見ないようにして、手を動かした。が、湯に溶けた粘液は、卵特有の生臭さを漂わした。私はご飯に卵を掛けて喰うのは嫌いである。もっとも小学校五年生までは普通に喰っていたのだが、ちょうどインフルエンザの時期で、自分も熱を出して寝込んでいたときである。母が昼飯に飯と生卵を用意してくれた。熱のせいで鼻が敏感になっていたのかもしれない。口の中に生臭い匂いが充満した。そのときは我慢して喰ってしまったが、横になってしばらく経つと、匂いに咽て、喰ったものをすべて吐き出してしまったのである。このとき以来、私は生卵を食したことはない。由紀子は卵を飯に掛けてよく食べるが、見ていてもたいへん気味の悪いものである。しかし、好きなものを喰ってはいけないと言うのも無理があるので我慢しているのである。小鉢を箸でかき混ぜる音からして憎らしいと思う。


                                                                ⑦―④

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