夏の一日 第五回

夏の一日



第五回


 ついでに妙なことを考えた。妻は小便と糞を捻り出すのだろうか。由紀子の入ったあと、便所は、いつも香水の甘い香りがするのである。スプレー式の消臭剤は置いてある。しかし、消臭剤特有のつんとした匂いではない。便所以外で由紀子から、あの香りを嗅いだ覚えはないのである。『おい、お前さんの糞を持って来い』と言ったら、どうするだろう。すました顔で、懐紙にカリントウを載せてくるかもしれない。莫迦\/しい、平中のおまるなんかどうだってよい、早く終わらせるのが先決である。
 完全ではないが、ぬるっとした感じは無くなって、卵のざらざらした肌が現れたので、盥から取り出し、水分を拭き取ることにしたときに、残酷な考えが浮かんだ。叩きつけて、割ってしまおうと思ったのである。やっぱり黄身と白身があふれ出すのだろうか、卵であるから殺人罪には当たらないだろう。それとも血管が黄身をとりまいているくらいに成長しているのであろうか。
 いづれにしても、殻を割って出て来るのは人間の子とは考えられなかった。今のうちに闇に葬ってしまったほうが、私と由紀子の将来のためによいと思った。
「ねえ、あなた、悪い考えを起こしているのじゃないでしょうね」
 横たえた体から首だけを私のほうに向けて、威圧的な調子で言ったのを聞いたとき、私は心の中を見られているようで寒気がした。
「悪い考えって、なんだい。僕はちゃんとやっているつもりだがね」
 と、努めて冷静を装って返した。
「さあ、終わったよ。次はどうするのだ」
「浮き輪の中に戻してくださいな。孵るまで私が抱かなくちゃならないのよ」
「どのくらいで孵るのだい」
「そうね……、二週間は要るわ」
 浮き輪の上に腹を乗せた格好が平泳ぎをしているようだ。この暑い最中に御苦労なことだと思う。私は今一つ大仕事を終え、また仕事を始める妻に、同情だとか憐憫の情が湧かなかった。明らかに麻衣のときとは違う。ただ、いやらしい、女という白い肌をした不気味な生物を見た。顔を横に向けて、
「もういいわ。あとは一人でだいじょうぶ。ああ、それから盥を片づけてちょうだいね」
 それっきり妻はうつむいてしまった。私は由紀子のきっぱりとした物言いに断絶を感じ取った。そうだ、自分は単なるお手伝いに過ぎなかったのだ。卵を産む女と将来の化け物のために下部となって働いた自分が惨めで悔しく、情けなくなった。同時に残忍な感情が目覚め、それは急激に成長した。この女の横っ腹を思いっきり蹴とばして、やっぱり卵を粉々に砕くべきだ。しかし怒りは成長しきると爆発しないで、今度は風船の空気が抜けるように急激に萎んでいった。殺害のあとに襲って来る恐怖が、もくもくと押し寄せて行動を掣肘したのである。私は自分の気の弱さに呆れた。どうして感情をコントロールできないのか。湿気と温度が上昇して生臭い匂いで部屋がいっぱいになっていた。もう我慢も限界に来ていた。私は「勝手にしろ」と言い放って、麻衣を抱き家を飛び出した。
 由紀子が何か言っているのが聞こえたが、黙殺した。私は走った。どこへ行くあてもないのに、とにかく走った。とにかく出来るだけ、家から遠ざかるべきだと思った。午後の太陽光線は鋭利な刃物のように皮膚に突き刺さった。汗が目に入って痛い。半町ほど逃げると、緑に覆われた公園があった。助かった、私は財布を持って来なかったのである。喉が渇いていたところだ。水飲み場の栓をいっぱいに開いて、車の給油のように水を胃に流し込んだ。水道水がこんなにも旨いものだと感じるのは、小学校の運動会以来だろう。水とダイヤモンドの愚話は本当だと思った。
 私が済んで、麻衣にも水を与えようと思って、顔を見ると、自分が抱いているのは麻衣ではなくて、人間の赤ん坊ほどのひよこだった。くちばしを開けたり閉じたりしている。やっぱり、麻衣も化け物だったのだ。今度、生まれて来るのも化け物に違いあるまい。私はひよこを木陰に投げ飛ばした。葉が揺れてがさがさしたと思ったら、黄色い塊が出て来た。私は恐ろしくなって走った。が、ひよこはついて来る。私と同じくらいの速さである。追いつくと、足を鋏のようなくちばしで突っつく。何度も、何度も突っついた。ズボンを破いて、肉に達していると感じる痛みが、その度にあった。ああ、なんていうことだ、こいつは母親の復讐をしているのだ。いったい、自分は何をしたと言うのか……。
 私の前に女子学生が座っている。駅に到着する度にペットボトルをバックから取り出して、二、三口飲んではしまい込んでいた。熱中症予防に水を持ち歩く若者を見るたびにけち臭いと思う。一度に飲んでも同じことではないのか。横浜まであと二駅である。客車ががたっと揺れた。女子学生はペットボトルの蓋を閉めようとしていたが、手が踊って転げ落ち、私の足元にやって来た。拾って投げ返すと、せっせとちり紙で拭っている。
 冷房は効いているが、西日がちりちりと肌を焦がしている。私は昨日の夢を反芻していたのである。どうして夢はいつもクライマックスの手前で終わってしまうものか。私は麻衣に食い殺されてしまうのか、それとも由紀子に謝りに行くのか。そんな理由はまるで無いのだが、夢では私が悪事をしたような筋になっている。考えても無益であるが、気になるのは由紀子が経堂へ行くというのが、符節を合わしていることだ。佐伯と羽田の怪談、それに焼き鳥が有ったから、嫌いな生卵の連想、由紀子と麻衣への裏返った愛情がアマルガムされて、へんな夢を見たのかもしれない。
 由紀子は麻衣が生まれて変わった。しかし、どこがどのように変化したかを説明するのは難しい。私の直感で、そのように感じるのである。言ってみれば、家の中に流れる空気の向きが以前とは違うのだ。麻衣を出産したときである、私は産院のベッドに横になっている由紀子を産後、初めて見たとき、彼女の目つきがもう女のそれではなく、母親の目になっていたのを覚えている。わずか一時間前に見たときとは別人になっていた。
 退院するとき、車で迎えに行ったが、助手席で麻衣を抱いた妻は、「この子はわたしが生んだから、わたしのものなんだ」と誰に言うともなく呟いたのが耳に残っている。私は自分との距離が広がったのを悟らざるを得なかった。
 視界が暗くなった。電車が停車場に滑り込んだのである。強い日差しを浴びたあとで眩暈がしたようだ。女子学生はもう居なかった。座席にはペットボトルがぽつんと置かれて、女子学生の痕跡を残していた。呉と待ち合わせの場所は総合百貨店の入り口で、時計台のあるところだ。私は横浜が不案内なので呉に任せてある。約束の時間にはまだ二十分ある。
 天井を支えている円柱にもたれて時間を潰した。家族連れが続々と百貨店に入って行った。私は百貨店で買い物をしたのは、いつが最後なのだろう。思い出せないくらい前のことで、葬式用のネクタイではなかったかと思う。わざわざ高い金を出して、ものを買うのがつまらなく感じられるが、そうでない価値観の人も大勢いるものだと、改めて思った。荷物を抱えて、引き上げる幸福な家族、しかし彼らは本当に幸福な家族なのだろうか。家族のそれぞれが、それぞれの役割に殉じて、幸福を演技しているのかもしれない。
 午後六時というと、家の前を、電車ごっこをして散歩する一家がいた。私は週末だけ目撃したが、由紀子に聞くと雨の日以外は毎日通っていたそうで、近所ではかるがもさんと呼んでいた。先頭は夫の運転手、中が長女、長男、次女、車掌が奥さんであった。家の近くの家族ではないから住んでいるところも、名前も知らない。一家で夕飯前に電車ごっこできる余裕が羨ましかった。仕事は公務員なのだろうか。そうだとしたら、今の時代は役人になるのが安全策というものだと暗い気持ちになった。民間会社にいる私は、明日はどうなるか、わからない不安がいつも付きまとっている。
 しかし不意にかるがもさんを見なくなってしまったのである。由紀子によれば夫がパチンコ狂で、ついにサラ金に手を出して離婚してしまったそうである。とても、そういう人には見えなかった。私には家族思いの優しい、民主的な旦那としか映らなかった。幸福と見えていたのは、実は虚像で、地獄行の線路を家族で走っていたのである。
 五分前になったが呉は現れない。自分から誘っておいて、失敬な男だと思う。しかし私は現れないで欲しいと願っていたのだ。三時半、きっちりに引き上げようと考えていた。とにかく、自分は義理を果たしのであるから、後ろめたさはないのである。
 あと三分だ、私は百貨店に入る人を数えた。五十人を超すか、自分に掛けて見た。三十六、四十、四十二、四十三、と来たところで、
「やあ、お待たせしてすまなかった」と呉が正面からやって来た。



                                                                ⑦―⑤

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