夏の一日 第七回

夏の一日



第七回


「驚くわよねえ」
「だって、今井君って三年間、ずっと学級委員だったでしょう、高校は東京教養大学附属に行ってさ、それがどうしたのよ、人生って勉強だけじゃないってことね」
「ねえ、今井君がどうしたの」
「さっき、聞いたんだけれど、高校に行ったら自分が秀才でもなんでもないのがわかって、中退してからグレて、暴力団の組員になって、傷害事件を起こしてね、府中刑務所に服役中なんですって」
「本当なの」
「嘘を言うもんですか。私はフツーでよかった。お母さんが気の毒ね」
 百五十人くらいは集まっているのだろうか。いずれにしても全員が来たなら、この会場に収まる数ではないから、ずいぶん居るようでも来ない人のほうが多いと思う。一つのテーブルに、いつまでも居るのは目立つので、グラス片手に、あるテーブルに移ったときに、三人の女の会話が聞こえてきた。
 今井とは一年のとき同じ級であったが、そのあと別になってしまったので、関心がなかった。小柄で色が白く、ことに頬はほんのり赤みがさして、大抵の生徒は上級生のマネで詰襟のホックを外し、不良じみた恰好が流行っていたが、彼だけはきちんと掛けて、いかにも秀才を宣伝している男であった。親しい間ではなかったから、これといった思い出はない。しかし、この話には驚きもし、悲しくもある。いったい、彼の内面にどのような異変が起きたのであろう。もともと在った悪の素質が、何かのきっかけで目覚めてしまったのかもしれない。
「うちの主人が東京教養大学なのよ」
「まあ、すごい」
 そら、始まった。だから同窓会は嫌いなのである。自慢するのは、肉付きのよい中背の女で、脂粉にまみれた皮膚に汗がにじみ出て汚らしい。女はオレンジジュースを飲み干すと、紅のあとをナプキンで拭った。グラスを持っている左手の指にはまっている二個の指輪が、光を跳ねかえした。
 私は指輪が嫌いである。だから、余計に目に付いたのかもしれない。由紀子も最初は付けていたが、気になるらしく、何かあるとくるくる回していた。が、そのうちに外してしまった。私のは、結婚式に一度着けたきりで、由紀子に渡したから、二個とも所在は知れない。男の指輪ぐらい気持ちの悪い装飾品はない。それが結婚指輪であっても。ばりっとした背広を着ても、ちゃら\/した指輪が見えると下品である。しかし、だいたいの人が気にならないようであるから、旧弊な考えかもしれないと思う。
 昨日のアルコールが、まだ体に残っているようで、明日のこともあるので躊躇はするが、二杯目を飲み干して、だいぶ明るくなったので、グラスにビールを注ごうとして、ビール瓶に手を伸ばしたときに、横合いから細く、白い手がにゅうと出て、「どうぞ」と注いでくれる女がいた。「水野さんですね」と、続けて、「お逢いできて、うれしいです」と言った。小柄で、今井の話をしている女たちよりも、若く見える。名前を呼ばれて驚いたが、名札を付けているのだから別段怪しむには足りないと、すぐに思った。呉は雲隠れ、こうしているのも莫迦らしいから、三杯目で景気を付けて、誰でもよい、顔の覚えている者を探しに出ようと考えていたところである。名札には高橋と書いてある。
「高橋さん……。失礼だけれど……、思い出せません」
「ええ、そうでしょうね、一度も組が同じになったことがないのですもの」
「そうですか。でもどうして」
「水野さんには記憶が無くても、私には有りますの」
 自分のことは自分が一番よく知っているようでも、自分に記憶のない自分が、他人の記憶の中で、脈々と生きていることがあるものである。客はアルコールが回って、会場が熱気を帯びてきた。ちょっと、ビールに口を付けて、目を逸らすと、名刺交換をしている者、写真撮影に忙しい者、肩を組んで校歌を熱唱しているグループがいる。グラスをテーブルに置くと、三人の女の一人と目が合った。ト、その先、テーブルをいくつか越したひな壇に司会用のマイクスタンドのある手前で、赤い顔の呉を発見した。呉の前には三人の男がおり、見たところ口論の最中である。呉と相対しているのが小林健一であろう、こちらも口角泡を飛ばす勢いである。剣呑になっているのが一目でわかる。
「同窓会が終わったら、少しおつきあいいただけませんか。ここでは、ちょっとアレですから……」
「せっかくですが、連れがあるもので……」
「では、あらためて……」
 と、メモを寄こした。それには高橋里美とあり、下に電話番号が記されていた。私はポケットに入れると、こうしては居られないと思った。
「あとで、来ますから」
 と言い置いて、人込みを分け呉のもとへ向かった。女は上目使いで合点\/した。誰かが、「水野じゃないか」と呼んだが、構っている場合ではないと思った。
 呉に、あと一メートル迫ったときである、呉の左手は小林の胸ぐらをつかむと、手前に引き寄せ、今度は右腕を、弓を射るように後ろに引き、頂点に達したところで、その反動で一気に、拳が小林の右ほおに打ち込んだ。小林の腰がテーブルに当たって大音響がした。梅雨のころ、池に小石を投げると、蛙の声がぴたりと止むように、ざわめきは消え、すべての視線が二人に集中した。時間は止まった。
 わたしは小林の腰が砕けるときに、ふわっと黒い円盤状のものが浮いたのを見た。そしてビール瓶の上に静かに着陸した。そのとき誰もが、その物体の何であるかを理解した。  
 テーブルからはビールが滴り落ちている。床に腰を付いた小林の顔はゆがんで狂気が現れていた。それは殴られたことよりも、もっと恥辱を感じたからであろう。
 時間は活動を開始した。小林は寄って来た者に助け起こされると、すぐに口を拭って、無残にも散った人工物の毛玉に、あたかも道場破りに負けたふがいない門弟を見放す主のように、軽蔑と憐憫の視線を送った。名誉を傷つけられ、怒りに震えた腕は、罰として門弟を打擲するように、人工物を鷲づかみにすると、床に叩きつけた。
 しかし怒りは収まらなかった。肩は上下に揺れ、怨念の混じった荒く熱い息を吐き出していた。呉に顔を向けた。血管の浮き上がった目は、無念の涙に染って、奥底から殺意の光線を放っていた。ぶるっと体を震わせると、呉に襲いかかった。
 が、咄嗟に皆で小林を押さえつけ、私は呉を遠ざけた。暴れる小林の口腔から、「この野郎、叩き殺してやる、この野郎……」と肺腑から絞り出す声が聞こえた。何度も繰り返しながら、控室のほうに連れて行かれた。
 同窓会の和やかな雰囲気は、一瞬にして消え去った。沈黙のあとは、そこかしこで陰口が始まった。呉は衿を直して会場を後にした。私はいっぺんに酔いが冷め、彼を追った。
 蒸し暑い夜である。停車場のビルが見えた交差点で呉の横に並んだ。これで彼は三十年の恨みが晴らせたのだろうか。顔からは読み取れなかった。私は聞くべきではないと思った。さっきから拡声器で怒鳴る声がしていたが、交差点を渡ると、その正体がわかった。最近になって、テレビで話題になっている『日本人を守る会』神奈川支部の政治宣伝であった。黒塗りワゴン車三台の先頭車の天井に上って、ニュースで見た神坂健が在留外国人排斥演説をぶっている。
「野蛮だねえ」
 呉は寂しい笑みを見せた。
「皇国だとか、靖国万歳を言う者が、ワゴン車に菊の紋を張り付けたり、国旗を掲げたりするものかねえ。本物は、象徴をもっと大切に扱うよ。あれじゃ、頭隠して尻隠さずじゃないか。僕は三国人とよく間違えられるんだ。呉は朝鮮語でオと発音するそうで、よくある名前だそうだ。君はそういう経験はないだろう。僕は念のために祖先を調べた。八代前まではわかった。向こうの血は混じっていなかった。しかし、その前はあやしいものだ。君だって遠い祖先はわかったものじゃない。反日とか言っている連中も祖先は日本人かもしれないよ。そうしたら、どんな顔をするんだろうね」
 私たちは、このまま別れるのも味気ないので、停車場近くの居酒屋に寄った。家に着いたのは九時ごろである。昨日から、もう一日経ってしまった。しかし、佐伯と羽田が来たのは、ずいぶんと昔のように思えた。軒灯が点いているから、由紀子と麻衣が経堂の実家から戻っているのが知られた。見上げると、古い虫の死骸に交じって、新しい虫が迷い込んでもがいていた。次の日曜日には、忘れずに掃除をしよう。
 付け加えておかねばならないのは、呉と小林の騒動で、置き去りにしてしまった高橋里美のことである。停車場でポケットに手を入れると、チューインガムの紙や、そのほかのゴミと一緒に、彼女のメモを取り出したが、ちょうど急行列車が入ってきて、すばらしく勢いのある風が、私の手にあるがらくたと一緒に吹き飛ばしてしまった。名前は知れているから、後日、名簿で調べた。高橋は三人いたが、二人は男で、あと一人は里美ではなかった。次は里美で見たが、里美という名の女は居なかったのである。やっぱり反故にしてよかったと思う。
 頬に冷たいものがあたった。どうやら一雨降りそうだ。



                                                                ⑦―⑦

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