三島由紀夫著・作家論

「作家論」・三島由紀夫著(中公文庫)

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 初版は昭和45年10月31日、中央公論より上梓される。箱入りの、いかにも論集らしい飾りっけのない本で、三島生前最後の単行本でもある。「林房雄」を除けば、各文学全集のために書かれた解題を集めたものである。〈なお本書は、私批評ともいうべき「太陽と鉄」と共に、私の数少ない批評の仕事の二本の柱を成すものと考えられてよい。〉と遺書めいた〈あとがき〉が付く。将来、作家論にまとめる予定で各作家に言及したのかは、わからないが、寄せ集め的であるのは、事件を前にしての店じまいであったからであろう。
取り扱う作家は、森鷗外、尾崎紅葉、泉鏡花、谷崎潤一郎、内田百閒、牧野信一、稲垣足穂、川端康成、尾崎一雄、外村繁、上林暁、林房雄、武田麟太郎、島木健作、円地文子である。時間があれば、志賀直哉、国枝史郎、若手では石原慎太郎、安部公房、大江健三郎あたりを追加したかもしれない。
作家論は作品論以上に難しい。個々の作家の生い立ちと作品を年表順に追って、若干の挿話と感想を交える研究論文ならいくらでもある。しかし、それは単なる作家研究の資料で書き手の文体は要求されない。本来の作家論は批評であるから、書き手の文体と対象物である作家の文体が激しく衝突されなければ、対象物たる作家の奥底にある本尊をつかむことはできないのである。強い文体には強い文体で立ち向かわなければ、相手の文体に負かされて、大けがをするだけである。作家論は小説を書くより難しいことで、文体の希薄な作家には到底できない仕事である。
本書は三島由紀夫というアクの強い個性が、アクの強い作家の作品に体当たりした結果、本尊をつかみだすことに成功したのである。〈文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもった批評は(小林秀雄氏のように)芸術作品なってしまう。〉と二十代の三島は「批評家に小説がわかるか」で述べているが、本書は、まさにその実践編ともいうことができる。
さて、私は取り扱う作家で、牧野信一、尾崎一雄、外村繁、林房雄、武田麟太郎、島木健作、円地文子はなじみが薄く、三島と感想を共有することはできなかった。うち林房雄は転向についての興味から執筆したものと思われる。私には三島の転向とは思想ではなくて心情の問題であるという解釈は、いかにも文学的であり、林房雄に好意的であるが、現実には政治的でどろどろしたもので、美しいものとは考えられない。むしろ、三島の誠実でありたいという心情を林に化体して語っているようだ。
大谷崎と言ったのは三島であるけれども、俗臭プンプンのエロチシズムは好きになれないのでパス。しかし、もっとも熱く語っているのは谷崎論である。
内田百閒と稲垣足穂、風変わりなものを書く文人である。この二人も三島が述べるほど、私には天才肌の作家とは思えない。ただ、百閒「東京日記」について、〈異常事、天変地異、怪異を描きながら、その筆致はつねに沈着であり、どこかにきちんと日常性が確保されているから、なお怖いのである。〉は、その通りである。日常との接点のない怪談は単なるファンタジーである。怪奇と言えば、鏡花であるが、この人のどこがよいのか、わからない。紅葉と鏡花はセットで論じているが、三島は鏡花のほうに思い入れが深い。私は断然、紅葉が上だと思う。
川端康成、文体のない作家の第一人者であり、徹底している。川端は自己放棄の人で、近代のあらゆる観念に騙されなかった人としているが、その通りである。騙されると文体が出来てしまうのだ。私は数年、小説の類は何かしら、ブログに書いているが、川端は、三島の作品と比べ書きづらいのは、文体を有していないからである。文体の強烈な作家ほど感想は書きやすいのだ。
ここまできて、最後に森鷗外であるが、集中もっともできの良い作家論だと思う。一つは、私が鷗外好きということもあるのだが、鷗外ほどの文人であれば、何を言ってもよいという気楽さもあるし、故人であるから遠慮もいらなかったからだろう。
〈少なくとも私の育ってきた時代には、「鷗外がわかる」ということが、文学上の趣味(グウ)の目安になっており、漱石はもちろん大文豪ではあるが、鷗外よりもずっわかりやすい、「より通俗な」ものと考えられていたのである。「わかりやすいものは通俗だ」という考えが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思うと、この固定観念が全く若い世代から払拭された今、かれらが鷗外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢いだともいえるのだが、しかし、鷗外が本当に「わかりにくいか」という問題には、前述のような鷗外伝説、鷗外の神秘化の力が作用していて、一概には言えない。鷗外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。〉
さきほど、鏡花について素っ気なく言ったのは、まさに鷗外と対極にあるからである。私は小説であっても文章は明晰でなくてはいけないと考えているのだ。鷗外の系列の作家では芥川龍之介を挙げることが出来る。鏡花はストオリもプロットも文書も含めて非明晰派の最高峰である。これは好き嫌いの問題であるから、逆の見方をする人もいて当然であるが、三島は「文章読本」で鷗外と鏡花を並列に述べているのは注目に値するであろう。鷗外が難しいと感じるのは、擬古文で書かれた作品があるからで、先入観に過ぎない。むしろ難解なのは漱石であるが、大半が言文一致であるために易しいと感じるだけだ。
批評は難しい、あまりに強い文体で対象物に迫ると、小林秀雄のように批評が一個の作品になってしまう、また弱い文体で迫ると、文庫の解説にあるように、単なる説明文か感想に陥ってしまう。中庸の精神はなかなかできることではないが、三島にしても谷崎潤一郎や泉鏡花、林房雄論は力が入りすぎて、結局は三島由紀夫を語ってしまっているし、川端康成ではやや遠慮がちで懐にまで剣が達していない。その意味で森鷗外は集中、もっとも調和のとれたものだと思う。
あとがきで〈文学批評としてこの作家論を読む人は、すべての作家に私が肯定的でありすぎることに疑問を抱くかもしれない。しかし私の頑なな態度として、気に入らぬ作家の解説は一切引き受けなかったのであるから仕方がない。〉と述べているのは、小林秀雄が、批評とは褒める技術だと言っているのと同じで、悪意を持った批評は批評になり得ず批判である。対象物に好意がある場合のみ、批判的意見も批評になるのである。全体的に褒めすぎているのは、文学全集の解説というやむない事情も働いているのだろう。


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