澁澤龍彦著・幻影の彼方へ

「幻影の彼方へ」・澁澤龍彦著(河出文庫)

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 澁澤の美術評論集。掲載されている美術家のうちで、知っているのはハンス・ベルメールとルネ・マグリットのみ、あとはどこかで見た記憶のある作品はあるけれども、追いかけて行かないのは、たいして興味がなかったからだ。どこまで現実に迫れるか、写実ということに大変興味があるのだが、ここではシュルレアリスムスの画家についての考察である。私は絵が下手であるから、アカデミックな写実には心を惹かれるのである。
それはともかく、写真の発明によって、画家は写実ということから解放されて、絵でなければ表現できない内的世界に向かったのは当然の帰結であろう。シュルレアリスムスの芸術家たちは、現実に対するパロディやイロニィが作品に込められているように思う。

 マグリットの「凌辱」という作品は、女の顔を描いた絵であるが、本来、目や鼻、口が有る部分がそれぞれ乳房、へそ、局所に、全体はボディに置き換えられているのだ。もしかしたら、この女は美人かもしれないと思う。そうすると、我々が見るのは、女の顔を通して、衣服に隠されている部分を見るのと同じ、さよう、肉体を想像するのである。男が女を見るのは、やっぱり性的な暗号なしには考えられないのだ。ただ、これだけを描いたのでは、単なる漫画である。マグリットの場合は、アカデミックな写実の技法で描くことで、現実との地続きがあるから、見る者に迫ってくるのである。思うに、あるパロディやイロニィを描いた作品が芸術に昇華するには、現実との接点がなければならない。「凌辱」は男の女に対する批評である。
〈『凌辱』という絵をごらんいただきたい。これはすでに、ユーモアとか皮肉とかいった段階をはるかに通り過ぎた、ほとんど女の神聖な裸体に対する冒涜ともいうべき、グロテスクな解剖学的デペイズマンとなってはいないだろうか。〉
マグリットの静かさは、私の好むところで、以前自身のブログにも書いたが、澁澤はマグリットの特徴を以下のように述べている。
〈注目すべきは、およそマグリットの絵のなかに、あらゆる熱狂的なものが厳密に取り除かれていることであろう。幻想とか夢とかいっても、これはオートマティズムや偶然の手法の介入する余地のない、理性の幻想、冷たい夢であろう。哲学論文に熱狂的なものがあり得ないように、マグリットの絵にも熱狂的なものはあり得ない。エロティシズムすら、そこではほとんど影をひそめているかのような気配なのである。たとえば女の裸体が描かれていても、それは肉の官能性の輝きを讃美するために描かれたものでもなければ、また作者の欲望や感情、潜在意識やコンプレックスの投入されたものでも有りえないから、この冷たい裸体は要するに、ただのオブジェにしかすぎないのである。〉

  ハンス・ベルメール。気色の悪い人形を制作した人物である。澁澤邸にある四谷シモンの人形も、いやに関節と陰裂が目立って不気味であるが、ベルメールの人形に比べれば、あどけない顔と少女らしい直線的な体は、よほど生気があってよいと思う。ベルメールときたら、顔は土気色、腹は膨らんで、開かれた陰裂は地獄の入り口のようである。昭和時代のオカルト映画に出てくる少女のようで、生気がまるでなくて、死臭が漂う感じがする。私はマグリットと反対の意味で、この人形作家の名を覚えているのである。
〈現代芸術は幾多の幻視的な絵画やオブジェを生み出したが、ベルメールの人形は、そのなかでももっとも強力な、もっとも刺激の強烈なものだと私は思う。それはイメージというよりも、オブジェというよりも、むしろ一種のフェティシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする。子供が愛撫する人形のような、原始民族が崇拝する呪物のような、なにか芸術を踏み越えた危険な魅惑が、そこから放射されているような気がする。肉体の迷宮を踏み迷うベルメールの執念には、人類が遠い過去の闇のなかに忘れてきた、あの呪術に似た願望がひそんでいるような気さえする。〉
ベルメールの気持ちの悪さは、日陰に追いやられた死とか、生殖、排泄といった人間の中にある動物的なものを表しているからかもしれない。私は人形の中にある人間の本能を見いだして、気持ちが悪くなるのかもしれない。彼の人形は最終的には死に収斂して行くようだ。人形の関節は取り外しが可能で、腕の部分に脚を、脚の部分に腕をつけることができる。ベルメールによれば、〈奇妙な矛盾の精神を吹きこまれて、肉体は、ある部分から取りのぞいたものを他の部分に重ね合せる。たとえば、腕のイメージに脚のイメージを、腋の下のイメージにセックスのイメージを重ね合せて、一種の『凝縮』を、『類似の検証』を、『言葉の遊戯』を、奇妙な解剖学的『確率論』を行うのである〉と。これは美に対するパロディである、イロニィである、冒涜である。非現実的な肉体の組み合わせは、殺人者が死体を切り刻む遊戯に似ている。だが殺人者に肉体の破壊はできても再生はできない。ベルメールは破壊と再生を人形という仮の肉体で実現させたのである。そのとき彼は、人間を超える創造者になった快楽を、享受したのではあるまいか。美を辱めることによって現れたのは、衣装をはぎ取られたあわれな肉体そのものであった。私が彼の人形に嫌悪するのは、血みどろの人間に対する恐怖である。


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