ピエル・ロチ作・お菊さん

「お菊さん」・ピエル・ロチ作/野上豊一郎訳(岩波文庫)

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 明治初年に於ける一フランス海軍将校の見た日本の印象記。日記の体裁で綴ったエッセィである。作者・ピエル・ロチの船は、明治18年の夏、長崎に寄港し、7月から9月にかけて、長崎の郊外で暮らした。ロチ、36歳の時である。外国人の見た日本記は多く残されているが、本書はそれらと類を異にする。というのも、岩波文庫の赤帯で出ているのでも分かるのだが、お菊という娘と契約結婚して、ままごと的な日々を送った感慨と日本の風俗・風習に於ける発見を忌憚なく述べ、単なる印象記にとどまらず、物語りの構成になっている。個人的な行動とその感慨のみに終始し、政治向きの話は皆無である点も、ロチが本作品に文学的享楽を目論んだと思われる。資料というよりも、西欧にはない日本の幻想の中に遊ぶ一フランス人の話である。
さて、明け方の二時ごろである、同僚のイヴと艦橋に立って、日本のことを話しあっていた。ロチは或る計画―日本の女と結婚―を打ち明けるところから始まる。この結婚は通常の結婚ではなくて、ある一定の期間、月いくらで契約する形のものである。ロチは先に日本に行った者から聞いたのであろう。斡旋する業者もいるのだ。ここでは勘五郎で、本文でカングルウ・サンと表記される。ちゃんと役場にも婚姻届を出すから本格的である。女中というのではなし、娼婦でもない、妙な関係で、娘の親も承知の上の契約なのである。外国人目当ての商売であるが、よくも考えるものだと感心する。
百花園という茶屋で、カングルウ・サンを介して、いろいろな娘を引合され、お菊(クリザンテエム)を選び、結婚することに。〈長い睫毛を持った目、少し細てではあるが併し世界中のどこの國へ行っても褒められさうな目。殆ど表情であり、殆ど思想である目。圓い頬の上の胴色、眞つ直ぐな鼻。こころもちふくらんだ唇、併しいい形をして、非常に愛らしい口もとをした唇。〉 お菊の印象であるが、実は売り込みに来たのではなく、見物に来ていたのだ。総じて日本人の印象は醜く、卑しく、怪異であった。往時の日本人の写真を見ると、ロチの言うのも納得できるが、少なくとも美しい人種というのは無理がある。とにかく、日本人のおじぎ好きには閉口したようだ。
船が長崎に着くや否や、小舟に乗った日本人が舟に上陸して、さっそく屏風や靴、石鹸、提灯などを拡げ商売を始める。こういうことに洗練されていないものを感じたようだ。〈賣手は皆品物の後に猿みたいに跼まり、兩手を兩足に觸れて―絶えずにこにこと愛嬌を振りまきながらお辞儀をしてゐた。〉日本人特有の謎の微笑も不気味に映ったことだろう。
ロチはお菊と十善寺近くにある家に住むことになった。連れだって外出する記述も見られるが、ロチが好んだのは日本の室内で、ちょうど床の間に花や掛け軸があるように、お菊が日本の女として、しっくり収まっている光景を見ることであった。実際、彼はお菊を人形に例えている。ロチはお菊を愛していたのか ? これは小説からは窺い知れない。性的な関係はなかったと言っているけれども、国には妻がいるし、海軍士官という立場もあって、本音を書けない部分もあると思う。ただ、信じるか、信じないかの問題だ。同僚のイブとお菊が仲良いことに、嫉妬めいた記述が後半になると現れる。その度に理性で解決を試みた。ロチはお菊の庇護者で、小鳥を愛でるような感覚であるが、幾分は恋愛感情があったかもしれない。お菊のほうは不明である。しかし、短期間ということであれば、深入りしないのがお互いのためである。
9月17日、明日支那へ出航する命令が下りる。あわただしい中に荷物をまとめた。
〈彼女は門の閾にひれ伏して、額を地びたにつける。さうして私の影が、永久に去ってしまうべき坂道の上に見えてゐる間、彼女は此の鄭寧なお辞儀をした姿勢のままでじつとしてゐる。遠く行ってから、私は一二度振り返って彼女を眺める。―併しそれは単に禮儀からである。彼女の最後の禮に敵ふやうに答へたのである。……〉
ロチとお菊の結婚は、双方の不純な動機からであったが、ロチにとっては日本を理解する手がかりの一つであった。生活のすみずみにある日本の抒情的風景に尊敬を示しながらも、先進国から見た下等国蔑視の考えがいたる所に散見されるのは、当時の日本とフランスのレベル差からやむを得ないことであろう。この作品からロチが日本贔屓であるかは疑わしい。東洋の珍しい国への興味関心が本書を執筆した動機であろう。野上豊一郎の翻訳は、岩波赤帯の例に漏れず、直訳的で硬質で情緒を欠いたものであるが、本書の場合は報告文であるので、かえって都合よく働いたと思う。


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