夏目漱石著・草枕

「草枕」・夏目漱石著(岩波文庫)

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 ― 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくい悟った時、詩が生まれて、画ができる。―
と、冒頭にある。その通りである。だいたい人間と人間の関係ぐらい面倒なものはないのである。続けて、
― 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。―
私はいっそうのこと、無人島を買い取って、人でなしの国の王様になってしまえば、人間に悩まさられることもなかろうとも考えるが、やっぱりうかうかしていられない。いつ家来が、人でなしの国に反旗を翻して、本能寺の変を起こされるか、わからないからである。
人間がいるから社会ができる。社会があるから窮屈なのである。各々が勝手なふるまいをしていてもよいというなら楽そうであるが、窃盗、殺人、強姦、その他、我々の社会で言う犯罪はいたるところに発生するだろう。それではとても安心して暮らしていけないから道徳ができ、法律ができるわけである。目に見えぬ縄に縛られているようなものだ。と、草枕の主人公は考えたわけではないが、何かわけあって、人間というものが面倒になってしまったようだ。主人公は画家であるから、― 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。― と芸術家の義務で那古井の温泉場にやってきた。旅の目的は非人情であるから、行く先々で出会う瑣事に深入りしないことに決めている。どこまでも第三者として、客観的に、それはまさに映画を見、小説を読むとおなじことであるが、現実の事件に遭遇した場合、どこまで人間は鑑賞者の立場で向き合えるかの実験でもある。
出会う人々について小宮豊隆(解説)は、「(前略)鈴の音をさせる馬をひっぱって来る馬方を描き、峠の茶屋の婆さんを描くとともに、那古井の温泉宿のことや、温泉そのもののことや、温泉宿に滞在中知り合いになった、温泉宿の主人だの、観海寺の和尚だの、髪結床の親方だの、その他いろんな自然と人間を描いた。ただこういう人間は、普通の湯治客の場合でも、まずは人情の電気の通いようがないから、だれでもある距離を置いて交渉することのできる人間である。しかしこの温泉宿の娘で、出もどりで、若くて美しい那美さんは、わりに自由に言動することのできる女性だっただけに、多くの男性にとっては、自分の方から人情を通わせたくなりそうな、特別な魅力を持った女性である」と述べている。
また漱石は『余が「草枕』(明治39年11月「文章世界」)で「私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。ただ一種の美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットもなければ、事件の発展もない」と述べている。普通の小説では人情の電気の通わない人物は、ごくあっさりと切り上げるのだが、「草枕」に限っては景色の一部となるように配慮がされている。
しかしこれでは小説にならない。そこで那美さんの登場である。主人公が湯に入っているとき、那美さんが突然現れるのは偶然か、それとも主人公をからかっているのか、あるいは試しているのか、挑んでいるのか、判然としないが、ともかくも先客が居ると知るや、ホホホホと鋭く笑う声を残して幻影のごとく去って行くのは、捕まえられそうで、決して捕まえられない神社の鳩のようで、逆にそうなれば、なんとしても捕えたいという情が、つまり電気を通わせたくなる女で、主人公は、那美さんに興味を持つ。那美さんは話しぶりから教養も備えている。那美さんが湯に現れる前に主人公は土左衛門をかいてみたいと考えた。
― スウィバーンの何とかいう詩に、女が水の底で往生してうれしがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリアも、こう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所をえらんだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮かんだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮かんだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れるありさまは美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうちこわすが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリアは成功かもしれないが、彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を持って、一つ風流な土左衛門をかいてみたい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮かんで来そうもない。―
たいへん難しい注文である。水に浮かんで死んでいる女はどう考えても、普通の景色ではない。そこでどうしても作者の思想が画に入って来る。それを主人公は取り除いて、つまりごく自然な状態をかいてみたい。そこで問題になるのが表情であるが、とんと浮かんでこない。と、計画しているうちに那美さんのほうから、― 私が身を投げて浮いている所を―苦しんで浮いてる所じゃないんです。―やすやすと往生して浮いている所を―奇麗な画にかいてください―と本気とも冗談ともつかない話が出る。
主人公は那美さんの顔が一番よいように思うが、何か物足りない。考えた末に“あわれ”の情が足りないと気付く。那美さんの従弟(久一)が戦地(日露戦争)に行く日がきた。主人公は皆と停車場まで見送りに行く。主人公は久一の乗った汽車が停車場を出るとき、見送る那美さんの顔に“あわれ”を見て、胸中の画面は成就した。
地の文で主人公の口を通して、漱石の芸術論を語る部分が多い。見送り人の哀しみさえも芸術に奉仕する最後のくだりは、芸術家の残忍さが出ている。

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