「ゆりちゃん」

ゆりちゃん





 寒くてやりきれない。母さんに一度めに起こされたとき、起きなかったものだから、今度は布団をめくられたのである。なにも、そこまでしなくても、よいではないかと思う。明け方、百合ちゃんの夢を見たものだから、余韻にひたっていたのだ。朝日が眩しい。さて、もう起きなければ、学校に遅れる。
 トーストをかじりながら、母さんに今朝見た夢を話した。母さんは、
「百合ちゃんって ? 学校の友達 ? 知らないわねえ」
 と流しに背を向けたまま、せっせと皿を磨いている。
 「学校の友達 」もないものだ、家に遊びに来たではないか、いなくなるとすぐに忘れるんだ。母さんは詰まらないことは、いつまでも覚えている。一学期の国語の成績が悪かったものだから、なにか面倒を起こすたびに言われる。この間、窓ガラスにボールをぶつけて割ったものだから、まだ怒っているのかもしれない。これ以上、百合ちゃんのことを話したって、フン、フン…で終わりに決まっているからやめた。歯磨きも、そこそこで家を飛び出した。いつもより十分遅い。

 郵便局の角まで来た。前は向こう側から百合ちゃんが来て、一緒に学校へ行ったものである。僕と百合ちゃんは幼稚園が同じで、ちょうど迎えのバスを乗る場所も同じだったので遊ぶようになったのだ。小学校に上がってからも、運よくクラスが同じになって、三年の一学期まで百合ちゃんはいた。
 ところが、夏休み中に、百合ちゃんのお父さんが急に大阪へ転勤になって、引っ越してしまったのだ。百合ちゃんは、もう会えないかもしれないからと、記念に緑色の下敷きを僕にくれた。上にビニールが付いており、中に時間割やカレンダーを挟めるようになっている。
 お返しに、お婆さまと、いつか浅草に行ったとき、ねだって買ってもらったビー玉をあげた。まだ封を切っていなかった。網の袋に大玉が十個入っている、とっておきの宝物だ。なに、構やしない、ビー玉は、またお婆さまにねだって買ってもらうさ。大阪には浅草がないのだから、ビー玉もないのだろう。百合ちゃんは顔をほころばせたっけ。
 百合ちゃんがいなくなってから、少しのあいだ、心に穴が開いたようで、寂しかったが、それもすぐに忘れて二学期になった。ところが、昨日から大事の下敷きが見えないのだ。宿題の算数をやろうと思うて、鞄のなかを探したがない。僕は百合ちゃんの下敷きを、学校で使っていたのだ。あゝ、困ったことになったなあ、と思うた。こんなことになるなら、家にしまっておけばよかった。六時間めの理科が終わって、鞄に仕舞ったのは、確かに覚えている。だから、盗まれたとうことはないのである。それでは道に落としたかと言えば、そんなことはあり得ない。しっかりチャックを閉めたのであるから。あゝ、いったいどこに消えてしまったものだろう。
 そして、今朝、百合ちゃんの夢を見たのである。どこだか分からないが、花がいっぱい咲いているところに、わたしと百合ちゃんはいた。とても悲しそうで、今にも涙が落ちそうな目をしていた。「 あたしのこと、忘れないでね、忘れないでね」と言っていた。僕は声を出そうにも声が出ないで困っていた。百合ちゃんは、どんどん遠くの方へ行ってしまう。僕は追いかけようと思うたが、足が動かない。そうこうしていると、母さんの声が聞こえたのである。百合ちゃんは下敷きをなくしたので、怒って出てきたのかもしれないと思うた。

 下敷きがなくなって、今朝、夢を見て、それまで忘れていた百合ちゃんのことで、僕の頭はいっぱいになった。先生の話が、ちっとも耳に入って来ない。早く、学校がお終いならないものかと思うた。
 百合ちゃんも、今ごろ、こうして大阪の学校で勉強しているのだなあ、と思うたり、百合ちゃんは、おとなしい子だからいじめられていやしまいか、と心配になったり、もしかしたら病気にでもなって、苦しんで夢に出てきたのではないか、と思うたり、次々と考えが浮かんでは消えた。百合ちゃんの居た机は、九月になって転校してきた石橋健治が使っている。石橋とは、まだ二三回しか口を訊いていない。百合ちゃんの机もロッカーも靴脱ぎも、みな石橋のものになったので憎らしいと思うたからである。学校が引けて、靴脱ぎのところに来たら、後ろから後藤君夫が僕の名を呼んだ。後藤は親友である。
「おい、帰るのかい ? ちょっと待ってくれ。今日は大変な日なんだぜ、昨日の放課後、うちのクラスと三組がドッジボールの果し合いをしたのさ。そしたら、うちのクラスは負けてしまったんだ。おまけに三崎は、向こうのボールが顔面直撃して口を切ったのだよ。それで、もう一度、果し合いを三組に申しこんだってわけさ。最近、三組のやつら生意気なんだ。ここらで締めておかなくちゃ。これから僕は助っ人に行く。君も来ないか ?」
 後藤は息が弾んで、顔も上気している。そこへ第二の親友の前田 宏がやってきた。
「大変だ、三組は柏木と藤川が加勢するって情報が入った」
 柏木は長身で足が速い、藤川は相撲取りのような体をしている。いずれにしてもドッジボールが得意なのである。僕は果し合いなど、どうでもよいと思うた。それよか、百合ちゃんである。
「ねえ、篠原百合はどうしているだろう ?」
 と二人に問うた。
「篠原百合って ? 誰なの ? 」
 後藤は間の抜けた顔で聞き返す。悔しいから、前田に、
「ほら、夏休みのあいだに、大阪へ転校した篠原百合だよ」と言うた。
 三人の後ろを、西村理沙が、すました顔で通り過ぎた。
「そんな女の子いったけかなあ ? わからない…。それより助っ人に行こう。今日こそは三組のやつらをコテンパンにやっつけてやらなくちゃ、しめしがつかん !」
「そうだ、そうだ、コテンパンにやっつけてやろうぜ」
 僕は歯医者があるからと言って断った。二人は自分に頓着しないで、グラウンドに飛び出して行った。

母さんも、後藤も前田も薄情者だ。なんだい、いなくなるとすぐ忘れてしまって。それじゃ、百合ちゃんも僕がいないものだから忘れてしまって、新しい友達と遊んでいるのだろうか。違う、百合ちゃんは薄情者じゃないや。僕は部屋の片隅にうずくまって考えていた。西日が差しこんで明るい。
 歯医者は、もちろんウソである。昨日の今日がなければ、喜んで助っ人しただろう。しかし、百合ちゃんのことを考えながら、ドッジボールをしたら、今度は自分が顔面直撃を喰らうかもしれないと思うた。それに気力がないから、助っ人の役に立たない。西村理沙は百合ちゃんがいなくなってからできた、新しい女友達である。理沙ちゃんに聞いてみようと考えたが、女だけに勘ぐりされて、へんな噂でも立てられたらことだと思うてやめた。理沙ちゃんも、可愛いには違いないが、ちょっと癇癪持ちが欠点だ。このあいだ、なわとびを貸さなかったら、物差しで背中を叩かれた。百合ちゃんは、そんな酷いことはしない子だった。それを思うと、やっぱり百合ちゃんが断然一番だ。
 こんな悄然としているときに限って、百合ちゃんは遊びに来たものである。百合ちゃんと遊んでいると、僕の機嫌も自然と直った。今ごろ、どうしているのだろうと思うと悲しくなった。
 さっきから、母さんが僕を呼んでいる。いい加減、行かないと、今度は母さんが癇癪を起すだろう。
 醤油を買ってきてくれと言う。

 口の中で、ミントが気持ちよい。母さんは、醤油を買った釣り銭で、菓子を買ってよいと言うた。僕はガムとチョコレートを買うた。チョコレートは明日の食糧である。まわり道して、百合ちゃんの家を見てみようと思うた。百合ちゃんが、ひょこり出てきそうで、胸がドキドキする。しかし、百合ちゃんの家は取り壊されて、新しい家が建っていた。塀も植木もみな、百合ちゃんの家のものは無くなっていて、がっかりした。もう、ここへ来ることもないだろう。帰り道、考えないのに、百合ちゃんの思い出が浮かんで困った。
 遠足の思い出がふと、頭に上ったときである。五月の遠足は富士五湖の本栖湖で写真を撮った。百合ちゃんは、白いスゥエーターを着ていた。写真でひらめいたのだ。集合写真が机の引き出しに仕舞ってある。これを見せれば、母さんも、後藤も前田も百合ちゃんを思い出すだろう。明日、先生に聞いてみよう、もしかしたら百合ちゃんの消息を知っているかもしれない。
 写真を引っ張りだした。しかし何べん見ても、百合ちゃんは写っていなかった。





私の夢十夜 第五回


                                                               

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