「甲 虫」 (1) 






甲 虫                     
              

(一)

 ロバート・スミス氏は四十を少し超えたイギリス人で、夫人と来日して五年になるが、私立大学文学部で英文学科の講師をしている。謹厳実直な人柄で知られている。教室でも学生の出席率を上げるため、日本の教員がしばしばやる、講義とは関係のない笑い話などは一切せず、実に担々と進めた。学生に媚るのは莫迦らしいと考えているのだ。
 スミス氏の時間は、学生のペンをノートに走らせる音と時おり咳ばらいがあるくらいで、私語が聞こえることはない。勉強する気力のない学生は容赦なく教室から追い出す。四月には二百人収容できる教室が、ほぼいっぱいであったのが、六月ともなるとスミス氏の剣幕に恐れをなして、五十人程度に落ち着く。だからと言って、残った学生に単位をくれるなどということもない。
 スミス氏の試験は採点が辛いので有名で、優をもらうのは大学を卒業するより難しい。脱落する学生が多いので、あるとき学部長に呼ばれて、もう少し何とかならないものかと相談されたが、頑として自分は英国流で行くと言って受け入れなかった。スミス氏は、学生が勉強しないのを嘆いた。学部長のほうから勉強するよう指導してほしいと要望した。適当なところで単位をあげるのは学生のためによいことではないし、第一に大学の権威の投げ売りに等しいではないかと、逆に詰め寄った。これには学部長も返す言葉がなかった。
 スミス氏は理論より型から入るのを旨としている。学生の時分、日本に留学しているときに、弓術から学んだ。本から得た知識だけで、日本の文化を語ることは出来ないと考えている。
大震災前である、夫人同伴で東北を旅したとき、岩手の料理屋で鯨の刺身を注文した。多少のためらいはあったが、一度に三枚、箸でつまむと口に放り込んだ。最初の一回を乗り越えると、あとは大丈夫、なんともなかった。夫人に食すよう促したがためらっていた。赤黒い肉に気味の悪さを感じた。スミス氏はその間もどんどんやった。夫の健啖ぶりに触発されて、夫人は恐る/\一枚、口に運んだ。意外にも旨かったので驚いた。
「どうだ、旨いもんだろう」
 スミス氏は口辺に笑みを湛えて言った。
 日本では昔から食っているのだから、不味いということはない。不味ければ今頃まで食べる者は居ないはずである。鯨を食っちゃいかんというのは、西欧の利己主義だ。牛豚や羊、フォアグラだって、みんな残酷な儀式を通過して食卓に上るのだ。いずれにしても人間は利己主義だ。トラやライオンは、残酷だなんて考えは持たない。生きるために食うだけなんだ。というのがスミス氏の論法である。今では夫人のほうが鯨肉の虜になって、イギリスに帰ったら食せないのを心配している。
 スミス氏は板書を終えて、教卓に戻ってきたところである。小豆大の甲虫が、机の端から端を行き来している。講義は始まって三十分を経過していた。       
 この甲虫はスミス氏が教室に入って来たときからいた。たかが虫の一匹や二匹で驚かないが、神経を刺激した。学生は板書をノートに写している。指で甲虫を弾き飛ばすと、弧を描いて最前列の席にいる女学生の髪に落ちた。咄嗟に『しまった』と思ったが、甲虫は女学生の黒髪の中に潜り込んでしまった。教壇を降りて、「君、頭に虫が……」と女学生に言いかけて止めた。女学生はノートから顔を上げて、上目づかいでスミス氏を見た。
「君の頭に虫が居るような気がしたのでね」
 とスミス氏はその場を繕った。女学生は手櫛で二、三度、頭を掻いたが、何も落ちてこなかったので安心して、再び板書を写す仕事を始めた。いくぶん幼い、硬さの残る字でノートは書かれていた。講義は順調に捗った。だが、教壇の隅に二匹の甲虫の死骸を発見した。黒板の端に、おそらく甲虫だろうと思われる黒い点が四つ確認された。午砲の鐘が鳴って講義が終了したとき、ネクタイにしがみついている甲虫を払いのけた。まったく虫が多くて困ると思った。
 食堂はまだ空いていた。今日は午前中の講義だけである。窓際のテーブルでコーヒーを啜りながら、建設中の講堂を眺めていた。ふと、窓ガラスに映った鼻の脇に、甲虫が一匹いるのを発見した。忌々しい奴だと思った。親指と人差し指で摘まみ、テーブルに乗せて茶碗の底で潰した。噛みついたり、汁を吐き出したり、何か悪さをするわけではないが、目に付くと神経に障った。いつから虫が湧き出したのだろう? 五月の連休前までは居なかったと思う。スミス氏が甲虫を意識したのは、二週間前の日曜の晩である。明日に予定している講義の予習を書斎でしていたとき、ノートに押し潰された甲虫を発見したのである。それから甲虫がいたる所で目に付くようになって、日を追うごとに増えていった。
 碗底に残ったコーヒーを一息で飲み干して、立上りかけたとき、同僚のやっぱりイギリス人で、英文学科の講師をしているブライアン・マードック氏がトレーにコーヒーと三角に切ったトースト二切れ、それに野菜サラダのボールを乗せて、スミス氏のテーブルにやってきた。マードック氏は三十代後半で、少壮気鋭、売出し中の学者である。スミス氏より一年遅れて大学に赴任した。二人は簡単な挨拶を交わした。
 マードック氏はトーストにバターを塗りながら言った。
「スミス先生の講義が厳しいから、僕のほうに乗りかえようっていう魂胆の学生がいてね、僕は腹が立った。僕は言ってやった、スミス先生で厳しいと言うなら、それは見込みがない、僕のところではまず単位は取れないよってね。そうしたら逃げていったよ。日本語で、前門の虎、後門の狼ってところだね。予習もしないでリーダーの時間に来るんだから、肝が大きいよ。しかし学生の勉強しないのは困るなあ」
「学部長に抗議したんだが、一向に効き目がない」
「それはそうと、スミスさん、顔色が優れないね」
「いやあ、ちょっとイライラすることがあるんだよ」
「若輩ながら、僕でよかったら相談に乗るよ」
「まあ、ありがとう、そときはそうさせてもらうよ。でも大したことじゃないんだ」
 スミス氏はマードック氏が腰かけたときから、サラダのレタスに甲虫が二匹いるのが気になっていた。いよいよトーストが終わって、サラダにフォークが伸びたとき、
「このサラダは取り替えてもらいたまえ。ほら、レタスに虫が二匹たかっている」
と、その個所を指で示した。マードック氏は目を凝らしたが、虫は見えなかった。
「虫がね……。僕には見えないが」
「見えないって! 黒い豆粒みたいな奴だよ」
 が、マードック氏には黒い豆粒どころか、グリーン一色しか見えていなかった。それでスミス氏の冗談かと思って、件のレタスをフォークで刺して、口に放り込んだ。スミス氏はマードック氏の豪胆さに驚いた。この分では生玉子や納豆も苦にならないだろうと思った。鯨肉を食したスミス氏も、この二品は未だに無理だった。マードック氏はトレーの上を平らげると、ナプキンで口を拭って、午後の講義があるからと言って失敬した。
 家に着いたスミス氏はキッチンのテーブルに夫人の置手紙があるのを見た。それには、渋谷にショッピングに出かけると書いてあった。
 上着のポケットに紙をねじ込むと、指先にコロッとした感触がした。ああ、またかと思った。突然の光と手のひらに驚いた二匹の甲虫は死んだふりをしていたが、それぞれが別方向に動き出した。彼はシンクに叩き付けて下水道に流した。
 二時を回っていたが食欲はなかった。シャワーを浴び、冷蔵庫からペットボトル入りのトマト・ジュースを取り出した。コップに注いで書斎に持って行き、一息で飲み干した。ベッドに横になり、鞄から取り出した学会誌を読もうとしたが、目次だけ見て脇に置いた。
 スミス氏は目を閉じて考えた。どうも自分は疲れているようだ。たかが虫で神経をすり減らすなんて莫迦げている。クリステルもマードックも虫が見えないって? なんだいそれは。老眼鏡の年でもないだろう。老眼鏡って言えば、さっき電車の中で俺の前に座っていたお婆さん、レンズに虫が居るのに平気で本を読んでいたな。それに学生も虫が居たって、追い払らわないですましている。
 俺が帰るとき、芝生でギターをかき鳴らしていた三人の学生は講義で見るけれど、怒鳴ったのは拙かったか? どうせ変な噂でも広めるんだろうよ。The day before yesterdayなんかやるからいけないんだ。The day before yesterday、The day before yesterday、今の俺にはあの五人組、ああ、考えるのも嫌だ。
 日本は清潔な国だと思っていたが、とんだお門違いだ。もっと神経が太くないと日本では暮らしていけないのかもしれないな。留学した時分は見なかったし、去年までは虫に気が付かなかった。あんまり、よく見えるようになるのも不都合なことがある。
 それにしても蒸してきたぞ。天気予報では、今晩一雨降るらしい。日本名物の梅雨が始まる前触れだ。しかし窓を開けるわけにはいかない。三日前に燻蒸したばかりなのに、奴らはもう侵入しているじゃないか。そうだ! 明日は教務課に行って、教室を燻蒸するよう話して来よう。まったく、講義どころじゃない……。クリステルは何時に帰って来るんだろう……。


                                                                 ⑤―①

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